多田敏宏:中国の食と病と文学のブログ

中国の食と病について文学の点から見てみたいです。

老舎、小病(病気との付き合い方)

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最近病気に関するニュースが多いですが、老舎(1899-1966)という中国の代表的な文豪が、病気との付き合いについて色々書いています。彼は67歳で亡くなっていますが、病死ではありません。文化大革命の際に迫害され、自殺しました。

  小病 老舎
 大病は死に近いので、考えただけで寒気がする。ならないのがいい。病気で死ぬのは首を切られたり生き埋めにされたり皮をむかれたりして殺されるよりはいくらか光栄であることは認めるが、やはりよく死ぬより悪く生きるほうがいい。青息吐息の状態は世を覆うほどの英雄でさえ涙をぽろぽろ流す。死をもって生き物を脅すのは人道的ではない。大病はこうして人を脅すので、たとえなくすのは無理でも、避けるべきだ。
 しかし小病は別だ。山上の和尚が俗を思う気持ちは、都会の学生よりはるかに強い。生活はリズムだ。光と影、左と右、晴と雨がなくてはならない。変化とあまりひどくはない曲折にこそ味がある。かすかに暗くなった後に明るくなる。そうすると暗は趣を増し、明はいっそう輝く。が、明るくなりすぎてはいけない。百ワットの電球のように突然焼き切れてしまうから。率直に言えば、これこそが小病の作用だ。常にこういう小病を患うのは必要なことだ。
 小病とは、アスピリンと清瘟解毒丸という二種の薬の守備範囲内にある病気のことだ。この二種の薬で治せない病気だったら、医者を呼ぶのが一番いい。あるいは遺言を書き、棺桶の準備をしておくべきだろう。今論じているのは自分で治せる「小病」だ。こういう小病は、半月に一度患うのが適切だ。一年四季、平均して八回小病を患えば、重病になることはないだろう。小病を患った後大病を患うのが好きだという人もいるのだろうが、それは個人の自由なので、ここでは取り上げない。
 こういう小病には趣がある。健康は幸福だが、生活には趣が必要だ。それゆえ「小病」を患えば立場が強くなる」と言うべきだろう。あなたが一家の大黒柱であろうと無駄飯を食っていようと、月日が経つと、冷たい目で見られるようになる。あなたが金を稼いでいれば、責任を果たせば果たすほどケチをつけられる。まるで茶色の犬のようだ。誰を見ても尻尾を振るが、尻尾を振らないと、陰で文句を言われたりする。そんなあなたは病気になってみればいい。朝起きて、「ああ、頭が痛い!清瘟解毒丸かアスピリンを買ってきてくれ」と叫ぶのである。ここで大切なのは声の勢いだ。犬の立場はどれほど高くなるだろう。
 少ししか物のわからぬ子供でも目を閉じて「お父さんが倒れたら大変なことになる」と考える。この時にこそ、あなたは犬の苦悶を発散できる。まさに衛星の要術だ。あなたが無駄飯を食っていたとしても、このやり方は効果がある。特に母親と兄嫁は、あなたが本当にアスピリンを必要としていることを知ると、今まで敬意のこもった対応をしていなかったことを悟り、何とかあなたを慰めようとする。京劇のセリフを聞かせたり子供を映画に連れて行ったりするのである。誠意を込めてあなたと相談したりもするようになる。本来ならちょっとした薬や映画を見たりするくらいで治る程度の病気なのだが、あなたの立場は大幅に強くなるだろう。友達の間でも、社会の中でも、だいたい似たようなものだ。
 また、二日で小病を自ら治すことは、精神の勝利でもある。人は医者に投降してはならない。漢方の医者であれ西洋医学の医者であれ、面倒を起こすものだ。頭が痛いと言って西洋医学の医者に行くと、もとが大した病気ではないのできちんと診断できず、必ず入院するように言う。そして様々な検査をして、足の小指の具合が悪いことを発見し、切り落としてしまう。十日経つと、頭痛は確かに治っているが、足の指は九本になっているのだ。漢方の医者はそれよりいくらか文明的で、足の小指のことは取り上げず、気が虚になっていると言って、二十種類の薬を処方する。何の病気かはっきりわからないと多くの薬を処方するのだが、病気を驚かせて追い払おうということだ。医者には行かないほうがいい。大病予防のためには、時々小病になって自らそれを治すのが一番だ。「大根を食べ熱い茶を飲んで健康になれば、医者は路頭に迷う」ということだ。
 ここで注意しなければならないことがある。ふさわしくないときに「小病」を患ってはならないということだ。頭痛は、下手をすれば王位を失うことにもつながるし、そこまでいかずともいざこざを起こすことがある。たとえば「長官」が会いたいと言っているのに、「頭が痛い」と言って行かなければ、とんでもないことになるかもしれない。どうやって小病を利用するかは、生活という芸術の中で探求していかなければならない。機会を見極め、想像力を働かせることが必要だ。
 実際にこのやり方をうまく使えるのは、一部の人だけだろう。高雅なぜいたくと言えるかもしれない。が、ユートピアでは人々は自由にこれを享受しているはずだ。当然、ユートピアにはもっといい方法があるのかもしれない。でも、どんな方法も小病というロマンチックなやり方には及ばない。

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