多田敏宏:中国の食と病と文学のブログ

中国の食と病について文学の点から見てみたいです。

清時代のタケノコ論、李漁

李漁(1611-1680)は中国清時代の文人です。

菜食のおいしさは、淡くて清潔、香り豊かでさっぱりしていることにある。それは肉食に勝ることを人々は知らない。漢字で表現すれば「鮮」だ。礼記に「甘美なものは味をつけるのが容易で、白いものは色を付けるのが容易」という言葉があるが、「鮮」こそ甘美の根源だ。この楽しみは、山に住んでいる和尚と野外に住んでいる人、自ら作物を植えている人しか味わえない。都会にいて八百屋で野菜を買っている人には、無理だ。が、都会であろうと山村であろうと、家の近くに菜園があって、好きな時に収穫して口に入れられる人なら、この楽しみを享受できる。

 タケノコについては、山林に生えているものだけがよく、都会のものは、たとえ香りがよくても、二流品だ。タケノコは野菜の中で最も味がよく、羊肉や豚肉など比べ物にならない。タケノコと肉を同じ鍋で煮て、同じ皿に盛って出すと、人々はタケノコだけを食べて肉は残す。このことからもタケノコの尊さがわかるだろう。市場で買ったものでさえそうなのだから、山で採ったばかりの物なら、どれほど素晴らしいか。
 タケノコの調理方法はとても多く、すべてを記すのは無理だ。ただ「菜食は白湯を使うのがよく、肉食は肥えたブタを使うのがよい」という言葉にまとめられる。タケノコを調理するとき、ごま油のような調味料と混ぜると、それがタケノコの「鮮」を奪ってしまうので、本来の味が損なわれる。


白湯で煮て、醤油を少し加えるのが正確なやり方だ。タケノコのような素晴らしい素材は、単独で調理するのがいい。肉と一緒に煮るのなら、牛、羊、鶏、アヒルはだめで、豚肉の脂身の多い部分がいい。

その部分の甘みがタケノコに吸収され、「鮮」を極度まで感じることができる。煮立つ直前に肉を取り除き、スープも半分しか残さず、澄まし汁を加える。調味料は、酢と酒だけを使う。これがタケノコを肉と一緒に調理する方法の概要だ。タケノコは単独で食べても何かと一緒に煮ても、美味だ。野菜であれ肉であれ、タケノコと一緒に調理できる。

 野菜の中でタケノコが占める地位は、漢方薬のカンゾウと同じで、必需品であり、他の食べ物を引き立たせる。搾りかすではなく、汁を用いるのだ。料理上手なコックはタケノコを煮た汁は必ずとっておき、他の料理の味付けに使う。食べる人は「鮮」を感じるが、それがタケノコに由来するとは思いもしない。「本草」には多くの食物が記載されているが、体にいいものがおいしいとは限らず、おいしいものが必ずしも体にいいわけではない。両方を備えているという点では、タケノコに勝るものはない。蘇軾は「食べる肉がなくてもいいが、竹のないところには住めない。肉がなくても痩せるだけだが、竹がなければ『俗』になってしまう」と言っているが、「俗」という病を治せるものが「痩せる」という病を治せることを知らなかったようだ。すでに育った竹かタケノコかの違いだけだ。

×

非ログインユーザーとして返信する