多田敏宏:中国の食と病と文学のブログ

中国の食と病について文学の点から見てみたいです。

杜甫と疾病(宗氏疼痛)

中国のサイトに出ていました。       


 杜甫は唐代の著名な大詩人で、字は子美、詩の中では自らを「少陵野老」と称している。彼の数多くの優秀な詩は、つまびらかにわが国唐時代の社会生活を記録し、人民の病気と苦しみを反映しているので、「詩史」と称賛されている。沈鬱な風格を作り上げ、のちの人は彼を「詩聖」と敬っている。杜甫は困窮と流浪の生涯を送り、体は弱く、よく病気をした。「驢にのること十三載、旅食す京華の春」という詩句を残しているが、四十四歳になってやっと小さな官職を得た。彼の書いた詩には、自らの貧困と病気の生活を描写したものが多くある。「薬を都の市に売り、朋友に寄食す」というような友人に職の施しを求めた詩作を読むと、つらくて涙が出そうになる。生活上の必要と病魔との戦いのため、杜甫は医薬学と切っても切れない縁を結んだ。彼は唐の玄宗皇帝に「三絶」と称された広文館博士で、「胡本草」を書いた薬学者の鄭虔と深い交友があった。杜甫が薬草を採取し、植え、薬を作ったり売ったりしていたのは、病気治療のためだけではなく、生活の足しにするためでもあった。「薬をうえて衰病をたすけ、詩を吟じて嘆嗟を解く」ということだ。彼はまた詩の友人のために病気治療の薬の処方もしており、「省郎は病士を憂え、書信に柴胡あり。飲子はしきりに汗を通じ、君を懐いて珠を報ぜんと想う」という詩句は、杜甫の文学と医学の双方とかかわった生活の一側面を表現している。
 「情によりて漂蕩を慰め、疾いを抱きてしばしば遷移す」。杜甫は三十歳の時風痹症にかかった。長期にわたってさすらい、水上に浮かべた舟の中で過ごしたので、病は悪化し続け、手足は痺れて痛み、関節を曲げるのも難しくなった。晩年になると「老妻坐痹を憂い、幼女頭風を問う」という詩句のように、風・寒・湿の三気の病となり、痛みで歩くのも不便になった。彼の詩には自らの風痹症を描写したものが多くある。成都に居住していた時、「竪子を駆りて蒼耳を摘ましむ」という詩に「巻耳いわんや風をいやすをや、童児しばらく時に摘まんと」と書いている。蒼耳には発汗と痛み止めの作用があり、風と湿を取り除く働きがある。杜甫は息子にそれを取ってこさせ、蒸した後服用して風痹を治そうとした。杜甫と同時代の医学者孫邈は蒼耳を「千金要法・食療」という医書に収録している。蒼耳には少し毒があるので、杜甫は「瓜かいの間に加点すれば、依稀たり橘奴の跡に」と、解毒法も記している。その後医書を読んで烏鶏に虚血を補い痺れを取り除く作用があることを知った杜甫は、囲いの中で養鶏を始め、「風をいやすに烏鶏を伝え、秋卵ほうに漫喫す」という詩句を残している。
 だが、長年いろいろなところをさすらい続け、住処も栄養もよくなかったので、風痹症は一向に良くならなかった。晩年は「緩歩なお竹杖にたすけらるるをまつ」という苦痛を味わった。751年、杜甫は長安にいた。雨が降り続いて水がたまるような状態となったので、蚊に刺された彼はマラリアに感染した。友人の王倚はやせ衰えた杜甫に料理をごちそうしてもてなした。杜甫はのちに詩を書いて感謝の意を表し、自らの病状について「瘧癘三秋だれか忍ぶべけん、寒熱百日相いこもごも戦う、頭白く眼暗く座して胝有り。肉黄ばみ皺ありて命は糸のごとし」と書いている。八年後詩人の高適に送った詩の中でも「三年なお瘧癘、一鬼銷亡せず。日をへだてて脂髄を探り、寒を増せば雪霜をいだくがごとし」と記しており、マラリアの臨床的な特徴をわずか数語で正確に記録している。マラリアの臨床的な特徴は周期的なふるえの発作と高熱、大汗で、後期は貧血と脾臓の腫れを伴う。杜甫の詩を分析すると、日を隔てて発作が起きる「間日マラリア」に罹患していたようだ。
 杜甫の詩の中には、友人に食や料理を求めているものが多くある。これは貧困のほかに、杜甫が重度の糖尿病を患っていたことが原因だ。漢方医学では「消渇」とよぶ。杜甫は元結という文学者に送った詩の中に「私に長卿の病多く、日夕調停を思う。肺枯れて渇甚だしく、漂泊す公孫城」と書いている。長卿は前漢の大詞賦家司馬相如の字で、彼も糖尿病を患っていた。多飲、多食、多尿、やせ、が糖尿病に典型的な症状だが、杜甫のような大詩人が病に苦しみ、飲食や生活も不安定、その上糖尿病のため食べても食べても満腹感がなく、飢餓感に惨めな思いをしていたのである。そうではあったが、杜甫は「我れ消渇甚だしといえども、あえて帝力の勤めらるるを忘れんや」という気概を持ち、飢えと寒さに苦しむ人民によく関心を寄せ、天子が安定した豊かな社会環境を創造することを希望していた。糖尿病には心筋梗塞、高血圧、肺結核、白内障、耳が聞こえなくなる、失明など多くの併発症がある。杜甫は晩年の詩の中で、しばしば自らの肺病を取り上げている。たとえば「肺気久しく衰えたるの翁」、「衰年肺を病みてただ枕を高くし」などだが、これは肺結核を患っていたからだろう。五十六歳の時に耳も聞こえなくなり、「耳聾」という詩に「眼はまた幾時か暗き、耳は前月より聾せり」と書いている。他に、臨終の一年前に「右臂は偏枯し半耳は聾なり」、「老年花は霧中に看るに似たり」などの詩句を見ると、杜甫は糖尿病から白内障、聾、中風、半身不随、足なえなどの症状を併発していたようだ。
 杜甫の死因については、史書にも今の学説にも、様々な見方がある。それらの中では「牛肉、白酒説」が最もよく知られている。ある人に贈られた牛肉を食べ白酒にあたって死んだというものだ。杜甫本人の詩と葬式に関する子孫の記述を見ると、実際は杜甫は湘江の舟の中で病死したのである。
 770年、59歳の杜甫は舟の中で病に伏していた。風痹症、糖尿病、マラリア、肺病などいくつかの病気を患っていた。病膏肓に入り、虫の息だった。死の直前、詩聖は「風痹にて舟中枕に伏し懐いを書す 三十六韻、湖南の親友に奉呈す」を書き、これが絶筆となった。その詩の中で漂泊の一生と様々な重病による苦痛、国を愛し民を憂う深い思いを述べている。死の末尾に「葛洪屍定解」という語句があるのが証明だ。「晋書」によれば、晋代の医学者葛洪が死ぬと、その屍はとても軽かったので、「屍が仙人の世界に行った」と人々は言ったという。杜甫はその故事に例えて、自身が間もなくあの世に行くことを書いたのである。牛肉と白酒は誘因に過ぎない。杜甫の詩はずっと「詩史」とたたえられてきた。医薬学と文献学の角度から言えば、彼が自らの病を叙述した詩句は、後世の人にとって詩の形をした貴重な「カルテ」であり、詩聖の病史の記録でもあり、医薬学の歴史を補う資料でもある。そして唐代における中国伝統医学の状況を反映しているのである。

×

非ログインユーザーとして返信する