多田敏宏:中国の食と病と文学のブログ

中国の食と病について文学の点から見てみたいです。

我が家の茶事、氷心<1900-1999>

   名前は忘れたが、ある詩人が以前こんな詩を書いた。

   琴、将棋、書道と絵、詩と酒と花、
   当時はとても熱中した 。
   今はすべてが変わり、
    たきぎと米、油と塩、みそと酢と茶から離れられない                                                       この詩の第一句の七つのこととは、私は以前から「ご縁」がない。「男の人について」という文の中に「私の叔父」について書いた一段がある。その叔父はいろいろ苦心して私を「才女」に「育て」ようとした。オルガンや将棋の駒、紙墨筆硯、カラー絵具などを私に買い与えた。それらはみな精緻に作られたものだった。が、私という「じっとしていられない」たちの「おてんば娘」は、一つもものにならなかった。叔父もがっかりし、あきらめてしまった!私は詩が作れない。「繁星」や「春水」などは、行を分けて書いた「ばらばらの思想」に過ぎない。酒は、以前から飲めない。盃に半分ほどのものを飲んだだけで、気を失ってしまう。医師も私に飲酒を禁じている。花については、子供のころから好きだった。天下に花を愛さない人などいないだろう。が、残念ながら、私はめでるだけで、祖父や父の花栽培に関する芸術と忍耐は受け継がなかった。多くの友人から花をもらったが、自分で花を植えたことはない。私が友人に贈る花かごは、みな花屋さんで買ったものだ。
   「たきぎと米、油と塩、みそと醤油と酢と茶」については、一人の主婦として、毎日付き合わねばならない。少なくとも買い物をするメードさんとは、勘定をしなければならない。
   テーマに入ろう。「茶」だ。私は中年になってから、茶を飲む習慣を身につけた。現在私は毎朝ジャスミン茶を一杯淹れ、そこに菊の花をいくつか加えて飲む。

菊の花はほてりを鎮める。私は子供のころから「ほてり」が強かった。ライチを五個食べたら目を真っ赤にしていたと祖父に聞いたことがある。それゆえ祖父は私にはリュウガンだけを食べさせた。
   ジャスミン茶は福健(氷心の出身地)の特産だ。子供の頃から父が蓋つき茶碗で飲むのを見てきた。碗の半分くらいまで茶葉を入れ、濃くて苦かった。苦い茶は、私はあえて飲まない。まず湯を半分ほど碗に注ぎこみ、父の碗から濃い茶を少しもらって入れていた。浅黄色だった。渇きを止めるだけのもので、茶を味わっていたわけではない。
  23歳になってからアメリカに留学し、冷たい水しか飲まないようになった。29歳の時に夫の文藻と結婚してから、客間のソファーの傍らのテーブルの上に、周作人さんにいただいた日本製の茶具を一通り置くようになった。竹の柄の急須一つと蓋つきの茶碗四つ。白地に青い模様で、素朴できれいだった。が、急須に入れていたのは湯冷ましだった。私と夫には茶を飲む習慣がなかったからだ。ある日、夫の清華の同級生だった聞一多さんと梁実秋さんが来られたのだが、笑われ、お説教をされた。その時から来客用の茶と煙草を準備するようになった。

   抗日戦争の時期、私たちはまず陥落した北平から雲南に逃れ、二年後再度重慶に戻った。夫は重慶の市街地に居住していたが、私と子供たちは爆撃を避けるため、郊外の歌楽山に滞在していた。退屈でどうしようもなかったので、私は「ある男性」というペンネームで、「女の人について」という文を遊び心で書き、原稿料を稼いだ。その一方で福建の同郷者が送ってくれたジャスミン茶で渇きをいやしていた。それを飲むたびに世を去った祖父と父を思い出し、「茶」の特別なる清らかな香りを感じていた。濃く淹れた茶はあえて飲まないが、その時から現在までずっとジャスミン茶を飲んでいる!
      1989.10.16

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