多田敏宏:中国の食と病と文学のブログ

中国の食と病について文学の点から見てみたいです。

喫煙を語る、朱自清

「喫煙にいいところがあるのか?チューインガムのほうがいい。甘くておいしいから」と言った人がいる。言うまでもなく、この人は素人だ。チューインガムも悪くはないだろうが、女や子供の好物で、男は好かない。アメリカは違うようだが、どんなことにも例外はある。チューインガムをずっと噛み続けるのは上品ではない。動く頬を隠すことができず、みやびさに欠ける。喫煙とは様相が異なり、オリーブを噛むのに似ている。オリーブを噛んでいる人を見たことがあるか?頬を膨らませ、口をもぐもぐさせている。喫煙はそんな力はいらない。ことに葉巻は手間が省ける。気が向いたときにくわえ、悠然と吸い込むだけだ。誰も気づかない。味というほどのものはない。強いて言うなら「わずかな苦み」だが、それが貴重だ。口に物寂しさを感じた時、煙草を吸えば充足を覚え、「やっぱり自分の口だ」と思わせる。チューインガムは甘くて味が強すぎ、「自分」を忘れてしまうかもしれない。

 喫煙は実際面白い。葉巻を吸うとき、箱か缶を開けて取り出し、テーブルに置く。くわえた後、マッチを擦って火をつける。

それぞれの動作に芝居をやっているような味わいがある。本人はそうは思わないかもしれないが、吸うのをやめると気づく。手持無沙汰で退屈さを感じるからだ。特に両手の置き所がない。吐き出す煙がゆらゆら立ち昇るのも、いい。

 煙草を吸っているととても遠い所に行ったような気分になることがある。多忙な時でも、くつろぎを与えてくれる。それゆえ吸い慣れている人は、口にくわえるや否や、遠くに思いを馳せることができる。ソファーにもたれている紳士であろうと階段にうずくまっているレンガ職人であろうと、瞬時に自由になるのである。煙草をくわえながら、他人とゆったり話すこともできる。曖昧模糊とした話だろうが、大切なのは何物をも気にかけないようなその表情だ。三昧の境地と言えるかもしれない。
 喫煙をパートナーの代わりにしている人もいる。たとえば一人で北平に滞在しているとする。友人と談笑して自分の部屋に帰ってくると、誰もいない。そういう時に煙草を一本取り出し、火をつけると温かさを感じる。夕方になり、部屋の中のものは輪郭しか見えない。明かりをつけるのが面倒なので、煙草を一本取り出し、火をつける。煙草の先にきらめく火は、親密なささやきのようで、自分にしかわからない。腹が立った時、それをまぎらわせるためには、煙草に火をつけ十口ほど吸えばいい。客が来たけど、疲れて話す気にならないときや何を話していいかわからないときは、煙草で口をふさいで応対すればいい。客もそうしたのなら、煙の中で時間を過ごせばいいのである。
 かつての水煙草

刻み煙草

は、そんなに悪い嗜好ではなかったが、今は葉巻が流行っている。葉巻を吸うと指先が黄色くなるが、別に構わない。吸い口をつけて吸うのは、面倒なだけではなく、けちなことで、煙草と隔たりができてしまう。煙草の火で服に穴が開いても、構わない。煙草一本に含まれるニコチンは雀一羽を殺せるほどだというが、構わない。思い通りにならないことがあっても、「気にしなければ」いいのである。煙草にはいいものも悪いものもあり、濃い味のものも薄い味のものもある。味の弁別ができれば専門家だし、選ばずに吸うのも玄人だ。

(1933年10月11日作 「大公報・文芸副刊」第六期)

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