多田敏宏:中国の食と病と文学のブログ

中国の食と病について文学の点から見てみたいです。

周作人、若子の病気

自分の娘が病気になったときのことを書いています。

残念ながら、数年後、この娘さんは十五歳で亡くなりました。

 「北京孔徳学校旬刊」第二期が四月十一日に出版され、子供の作品が二編掲載されている。そのうちの一篇は私の娘が書いたものだ。

 「夜の月」というものだが、晩に見た月を、大きく明るく書いている。「月に頼んで抱っこしてもらい、空で遊ぶ。月が何かくれたらとても嬉しい。それをお母さんに食べさせたら、とても喜ぶだろう」。

 だが、この旬刊が郵送されてきたときには、若子は瀕死の状態だった。母親はむしろの上に広げた旬刊と意識の朦朧とした病人を見て、何も喋らず、私に旬

刊を片付けさせた。私は娘の書いたものを読んで、私が六歳の時に亡くなった弟のことをふと思い出した。急性肺炎を患う二、三日前、弟は女中に空の上のことをしつこく聞いていたのだ。迷信に過ぎないことはわかっているが、背筋に冷たいものが走った。

 十一日の夜、娘は熱を出し、吐き出した。おりあしく、子供用の摂氏の体温表は私の甥が破ってしまっていたので、熱が測れなかった。夜明けにやっと測ったら、何と四十度三分だった!八時ごろに痙攣が始まり、妻は娘を抱きしめ「冷たくなった、冷たくなった!」と叫ぶだけだった。妻の妹が外に行き、私の弟を呼んだ時「死んじゃった」と叫んだので、弟は驚き、ベッドから転げ落ちた。その後医者が来たのだが、「流行性脳脊髄膜炎」という診断で、脳の故障であり、危険が大きいということだった。十二時に再度痙攣が始まり、心臓がばい菌で弱って血行不良となっており、皮膚が黒ずみ始めた。腕を押すと、凹んだままなかなか元に戻らない。この日、院長の山本医師と助手、看護婦の永井さんや白さんが次々にやってきた。山本医師は四回来て、永井さんに留まって看護をするように言った。一日目は混乱の中で過ぎ、二日目、病人は悪くはならなかったが、二時間ごとに一昼夜打ち続けたカンフル注射が効果を見せず、心臓は弱ったまま、熱は三十八度と九度の間だった。この日の午後病人がチョコレートを食べたいと言ったので、私は買いに行った。途中で不吉な予感がしたので家に帰ったが、何もなかったので少し安心した。次の日は火曜日だったので、やむなく学校に授業に行った。午後三時授業が始まろうという時に、家から電話があったので、急いでやすみをとって帰ったが、何もなかった。夜中の十二時に山本医師が診察に来たが、命に別状はないとのことだった。十二日以降、食塩注射を二度、カンフル注射を三十度以上行った。からだを七十二個の氷嚢で冷やして、幸い命は保った。

 山本医師が川島さんに語ったところによれば、日曜日には危ないと思ったそうだ。その次の日、永井さんは妻の妹の部屋に行って涙を流したそうだが、この子はダメだとおもったのだろう。だが、娘は九死に一生を得た。何の力だろう?医者か?薬か?彼女自身の計り知れない力か?私が感謝しているのは自然ではなく、人だ。山本医師と永井さんの熱心な助力にとても感謝している。もちろん四年前に私の肋膜炎を治してくれたときの労苦を忘れたわけではない。

 丸々一週間眠って脳が徐々に良くなり。動かせるようになったので、十九日の午前に病院に移した。心臓を治さねばならないので入院した方が便利だし、朝晩二回医者に来てもらう手間も省ける。現在体温は元に戻り、脈拍もだんだん良くなっている。娘は私がかつて二ヶ月入院していた病室のベッドに寝ているが、氷枕。胸の前に小さな氷嚢だ。両手を伸ばして、歌を歌ったりしている。

 緊張し切った心は簡単には緩まない。今日で娘が入院して十一日だが、午後私は頭痛で仕事を休み、庭を散歩した。白と紫のライラックが満開で、ヤマモモは盛りを過ぎかけていた。エロシェンコさんがロシアに帰る前に記念に植えたアンズの花はすでに散り、緑のへただけが若葉の下に見える。春は過ぎ去った。私たちが恐れおののいているうちに。北京の短い春は行ってしまったようだ。アンズの花が見られなかったのは惜しい気もする。が、花は来年再び咲く。春は来年やってくるので、その時見ればいい。過ぎ去ってしまえば二度と戻ってこない春の光をとどめておくことができたのだ?満足している。

1925年四月二十日雨の夜

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