多田敏宏:中国の食と病と文学のブログ

中国の食と病について文学の点から見てみたいです。

魯迅の死に際、許広平

魯迅(1881-1936)の死に際について、夫人の許広平が書いています。魯迅は五十代でなくなっていますが、最後まで頭ははっきりしており、トイレも自分で行っていました。
…十七日の午前、彼は「太炎さんで思い出した二、三の事」という文の中段を書き続けていた。(彼はそれが自分の最後の仕事になるとは思わなかったようで、病気がましになったら再び書こうと思っていたのだろう。原稿が机の上に重なっていた)。午後、彼は散歩に出たいと言い出した。…
 かなり遅くなってから帰ってきた。魯迅の弟の建人さんも夕方やってきた。とても機嫌がよく、夜の十一時まで話をして、建人さんは帰った。
 十二時になると、私は急いで寝具を整え、「もう時間が遅いですから」と彼に催促した。彼は寝椅子にもたれ、「僕はもう一本タバコを吸うよ。君は先に寝なさい」と言った。
 彼がベッドに来た時、時計を見ると、もう一時だった。二時に彼は起きてトイレに行ったが、具合は良さそうで、再び眠った。三時半、彼がベッドの上に座ったのが見えたので、私も座った。細かく観察すると呼吸の具合が異常で、ぜんそくの初めのようだった。その後咳が続いたが、それが困難になり、ぜんそくがひどくなっていった。彼は私に「二時に寝たがよく眠れず、悪い夢を見た」と言った。深夜で医者を呼ぶのは不便、また三回目のぜんそくで以前の二回のものほどひどくはなかった。苦痛を和らげるため、購入して家に置いてあったぜんそくの薬を持ってきた。説明書には肺病の人が服用してもいいし、心臓性のぜんそくの人が服用してもいいと書いてある。そして一時間か二時間の間隔で三回服用せよとの記載だ。それゆえ三時四十分に一度目を飲ませ、五時四十分まで、三回飲ませたが、病状は軽くならなかった。
 三時半から病状が急変した。彼は寝られず、もたれて休むこともできなくなった。一晩中体を曲げ、両手で足を抱えて座っていた。そうして苦しむ姿を見るのはとてもつらかった。精神面では私は彼の病苦を分かち合っていたが、肉体面ではすべての苦しみを彼がひとりで引き受けていたのだ。彼の心臓の鼓動は速く、トントンという音はそばにいる私にもはっきり聞こえてきた。ちょうど夜が明けようとしていたが、彼は左手で右手の脈を測っていたので、鼓動が速いことはわかっていただろう。
 朝七時に内山さんに頼んで電話で医者を呼んでもらうように、彼は私に言った。…
 しばらくしてから内山さん自身がやってきて、自ら彼に薬を飲ませ、背中をマッサージした。彼は内山さんに苦しみを訴えていたが、聞くのがつらかった。
 須藤医師がやってきて、彼に注射をした。両足が冷えていたので、湯たんぽで足を暖めろということだった。両手の指の爪が紫色になったのは血圧の変化が原因とのこと。医者が注意深く彼の爪を観察しているのを見て、今度は重大事態だと私は思った。が、彼は依然として机の前の椅子に座っていた。…
 寝椅子の上でももたれることができなかったので、小さなテーブルを枕元に置いて伏せられるようにしたが、そこでもゼイゼイ言っていた。医師が再び注射をしたが、病状は軽くならず、その後ベッドに横たわった。
 正午にコップに半分ほどの牛乳を飲んだが、喘息は止まらず、医師に苦しみを訴えていた。
 六時ごろに看護婦がやってきて、彼に注射と酸素吸入を行った。
 七時半に私が牛乳を渡すと、彼は「いらない」と言った。少したってから「牛乳はあるか?」と尋ねたので、「あります」と私が答えると、彼は「少しくれ」と言って、コップ半分に少し足りないくらい飲んだ。実際は飲める状態ではなかったのだが、衰弱しすぎると持ちこたえられないと思った彼は、無理やり飲んだ。この時になっても、彼はよくなろうと思っていたのだろう。奮闘を簡単にあきらめることを彼は望んでいなかった。…
 彼は喘息で苦しみ続け、会話にさえ不自由していた。看護婦が傍らで汗を拭いたりしていた。足よりも上からは汗が流れ続け、それより下は氷のように冷たかった。湯たんぽ二つで足を暖め、二時間ごとに強心剤を注射し、酸素吸入もやった。
 十二時の注射の後、看護婦が寝ていないので疲れていると思った私は、「少し寝てください」と言い、二時の注射の時にまた起こした。この時は私が彼を看護し、汗を拭いた。が、普段の汗とは違い、冷たくて粘っこかった。彼の手を拭くと、彼は私の手を何度も、しっかり握った。そばについていると、彼が「時間が遅いから、君も寝ていいよ」と言ったので、私は「寝ません」と言った。彼に安心してもらうため、はす向かいのベッドの足に私はもたれていた。何度か彼は頭をもたげて私を見たので、私も彼を見た。私が微笑みながら「病気が少し軽くなったみたいですね」と言うと、彼は何も言わず再び横たわった。この時何かを予感していたのかもしれないが、彼は何も言わず、私も尋ねなかった。その後手の汗を拭いていると、彼が私の手をしっかり握った。私は彼の手を握り返す勇気がなかった。彼を刺激してつらい思いをさせないほうがいいと思い、知らぬふりをした。そっと彼の手を放し、彼に布団をかぶせた。後で思ったのだが、あの時彼の手をしっかり握り返し、しっかり彼を抱きしめるべきではなかったか。そうすれば死神から私の敬愛する人を奪い返せたかもしれない。今となっては、もう遅い!死神が勝った。悔やんでも悔やみきれない。
 十二時から四時までの間、三回お茶を飲み、起き上がって一回トイレに行った。かなりイライラしていたようで、何度も布団を押しのけた。冷えるといけないと思ったので私はかけなおしたのだが、十五分ほどたつとまた押しのけた。看護婦が仕方なしに「心臓が弱っているので、みだりに動かないほうがいいです」と言うと、あまり押しのけなくなった。
 五時、喘息は軽くなったように見えたが、六時を待たずに看護婦が注射をしたので、状況があまりよくないのだと思った。同時に看護婦は私に医師を呼ぶように言った。そのときは内山さんの店員が徹夜で客室に待機してくれていたので、私は急いで彼に頼んだ。建人さんも二階にいた。魯迅は呼吸もかすかになっており、何度か注射をしても好転しなかった。
 彼らは声をあげて魯迅を呼び、私も力の限り呼んだが、反応はなかった。空は暗かった。黎明前の暗黒が、魯迅を奪っていった。暗黒の力はとてつもなく巨大だ。数十年戦い続けた魯迅でもかなわなかった。医師は「明日までもてば危険は脱する」と言ったが、彼は明日、明るい昼までもたなかった。そして暗黒、あの忌まわしい暗黒を、私は今でもにらみつけている。死ぬまで呪い続ける。十一月五日、夫魯迅の死後二週間と四日たってから記す。


×

非ログインユーザーとして返信する