多田敏宏:中国の食と病と文学のブログ

中国の食と病について文学の点から見てみたいです。

白居易の眼病(医学教育網)

中国のサイトにありました。

 「眼暗」という詩に白居易が書いている。「早年の勤倹書をみるに苦しみ、晩歳の悲傷涙を出すこと多し、眼の損ずるは知らず、すべて自ら取りしかと。病なりて方に悟るいかならんと欲するを」
 唐の人々の詩作の中には眼科の疾病に関するものがよくみられるが、その中では「詩翁」白居易のものが最多だ。専門家の統計によれば、白居易の現存する二千首以上の詩歌の中で、医薬学に触れたものは百首以上あるが、これは唐代の詩人で一番多い。
 白居易の一生はでこぼこで、家庭生活も不幸だった。二十七歳の時に進士に合格してから、秘書省校書郎、翰林学士、左拾遺、江州司馬、杭州刺史などの官職についたが、様々な浮き沈みを経て、三十七歳の時にやっと結婚した。長女の金鑾は三歳で夭折し、白居易は詩の中で泣いている。五十八歳の時に、崔という息子を授かったが、また三歳で夭折した。老年で息子を失った彼は、異常なほど苦しみ、詩に「悲腸自ら断つは剣によるにあらず、啼眼ますますくらきはこれ塵ならず」と書いている。官吏の世界での失意と生活の貧困、それに子女の夭折が加わり、白居易は重度の眼病を患った。彼の詩作には、その方面に関する記載がしばしば登場する。病気療養と修養のため、詩翁は蘇州刺史という官職を辞し、故郷に帰って静養を始めた。当地の民衆も、彼を温かく迎えた。
 「眼暗」という詩の中で、白居易は「早年の勤倹書をみるに苦しみ、晩歳の悲傷涙を出すこと多し、眼の損ずるは知らず、すべて自ら取りしかと。病なりて方に悟るいかならんと欲するを」と書いている。詩翁はここで、若いときに苦学して勉強し、視力の保護に注意を払わなかったのが、自身の眼病の原因だと言っている。また子女の夭折でショックを受け、悲しみで多くの涙を流して眼病に取りつかれるようになったことについて、「いかならんと欲するを」とやるせない思いを述べている。続けて、詩翁は自身の眼病の症状を詳細に描く。「夜くらくして乍ち似たり灯まさに滅するに、朝くらくして長らく疑う鏡いまだ磨かざるかと」。朝と夕、銅の鏡と松の灯の前で、ぼんやりとした視力で政務を処理し詩を書くのは、どんなに苦しかっただろう。眼病が頻発するので、白居易は漢方薬と切っても切れない縁を結んだ。眼科の医書を読み、陰に滋養を与えて肝を養う漢方薬を服用し、オウレンの液を点眼薬として使った。のちには丹薬を煉ったり、気功もやったりした。
 「眼病」という詩の中でも、白居易は眼病の症状について書いている。「散乱す空中千片の雪、朦朧たり物上一重の紗、たとえ晴景に逢うも霜をみるがごとし、これ春天また花も見えざらん。僧は説く客塵の眼界にありしと。医は言う風眩肝家にありと」。詩翁は生き生きとした言葉で眼病の症状を描いており、まさに詩体のカルテだ。これらの詩を分析すると,彼の両眼には翳りができ、物がはっきり見えない状態であったようだが、老年性白内障を患っていたのだろう。漢方医学で言う「雲霧移睛」及び「浮翳内障」だ。……
 別の詩の中で、詩翁は医者や薬、自らの療養生活について述べている。「医師はことごとく勧む、まず酒を停めんことを。道侶は多く教う早く官を罷めんことを。案上漫に舗く龍樹の論、盒中虚に捻る决明丸。人間の方薬応に益なかるべし、いかでか金篦を得て刮を試みてみん」。詩の中の「龍樹の論」とは「龍樹菩薩薬方」とも言い、隋唐の時代にインド医学が仏教とともに中国に入ってきたあとに、中国語に訳されたインドの医書だ。ケツメイシ、シャゼンシ、オウレン蜜丸は、肝の虚や目を治療する漢方薬だ。おそらく、詩翁は、友人に忠告され、官をやめて故郷に帰り、名利から離れた生活を送り、医薬学の書籍を読み、丹薬を作り、酒を節約して目を良くしようとしたのだろう。だが、薬の力は有限で持病はなかなか治らなかったので、金針抜障術にすがらざるを得なかった。金針抜障術とは、針を使用した当時の白内障の手術で、唐代孫思邈の「千金方」と王焘の「外台秘要」の中に記載がある。千年以上前の唐の時代に、インド僧によって行われるこの手術が普及していたのである。
 眼病は詩翁に多大な苦痛を与えた。が、.子機1この時代に、幼いころから体が弱く、苦労を重ねでこぼこを経験してきたこの詩人は七十五歳まで生きた.古希を五年超えており、当時では長寿だったと言える。

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