多田敏宏:中国の食と病と文学のブログ

中国の食と病について文学の点から見てみたいです。

蘇軾と疫病パンデミック、封面新聞記者李貴平

 宋の紹聖元年(1094)、五十九歳の蘇軾は左遷されて南へ向かっていた。愛妾の王朝雲と幼子の蘇過をつれて恵州にたどり着いた。
 恵州への旅に出る前、蘇軾は年若い王朝雲に江南にとどまるよう何度か言ったが、朝雲はきかず、ずっと蘇軾のそばに付き従い、うらぶれた時期の蘇軾の生命の支柱となった。
 蘇軾一家の恵州での生活はどうだったか?米にも、米を炊く薪にも困っていたようだ。当時の恵州について、蘇軾はどう書いているか?「恵州謝表」の中に「瘴癘(恐ろしい病気)の地であり、化け物と隣り合っている」と書いている。「与王庠書」の中には「瘴癘の邦」と書き、「与林天和長官」の中には「瘴疫が横流し(恐ろしい病気が流行し)、数えきれないほどの死者が出ている」と記している。
 紹聖三年(1096)の盛夏、、嶺南は耐え難いほどの蒸し暑さが続いた。王朝雲は疫病に倒れ、何日も苦しんだ後不幸にも亡くなった。まだ三十四歳だった。
 蘇軾は嘆き悲しんだ。ちょうど彼は隣接する広州の疫病パンデミックを抑え、多くの民衆を病苦から救ったところだったのだ。彼はちょうど恵州の民衆のために「病を治すためにはショウガ、ネギ、ドウチの三つを煮てすするのがいい」という指示を出したところだったのに、病を得た愛する人を救うこともできなかった。蘇軾の役人人生の大部分は民の苦しみを救うことに費やされたが、それは医を施し薬を配ることでもあった。
 が、愛する人を若くしてはやり病で死なせてしまった。蘇軾は自らを責め、苦しんだ。回想の中で、二十三年前の西湖のほとりでの美しい出会いが浮かんできた。「鳳凰山のふもと、雨がやんで太陽が顔を見せ、雲は淡く風は清い。夕焼けは美しい。ハスの花が一つ咲いたが、麗しくて清浄だ。どこかから白鷺のつがいが飛んできた。琴を奏でる人の美しさにひかれてきたのだろうか」。また、十三年前子供を亡くした黄州での夜を思い出したかもしれない。「我が涙はなお拭うべし、日々に遠ければ当に日々に忘るべし。母の哭くは聞くべからず。汝とともに亡ぜんと。故衣なお架に懸かり、漲乳已に牀に流る」。
 悲しみを何とかこらえた蘇軾は王朝雲の遺言に従い、亡骸を恵州西湖孤山南麓の棲禅寺大聖塔下の松林に埋葬し、六如亭を記念に建てた。
  数日後、「軾は罪責を以て、炎荒に遷さる。侍妾王朝雲あり、一生辛勤し、万里随従す。時の疫に遭い、病に遇いて亡す。その死をしのびての言を念いて、棲禅の下に託さんと欲す」と書いている。
 蘇軾はまた「西江月・梅花」という詩に「玉骨なんぞ瘴癘を愁えん、氷姿自ら仙風あり。海仙人時に遣わして芳叢を探らん、倒掛せよ緑毛の幼鳳よ。素面常に粉涴を嫌い、洗粧褪せずして唇紅なり。高情已に暁雲を逐いて空し、梨花と夢を同じうせず」と書いた。咲いた梅の花は、朝雲のように美しく、朝雲のように香りが豊かだったのだろう。


 蘇軾は疫病のパンデミックで愛する人を失いました。ショックは大きかったようです。

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