多田敏宏:中国の食と病と文学のブログ

中国の食と病について文学の点から見てみたいです。

中国のパンデミックいくつかと詩、世界名著毎日読のサイトから

 中国の歴史は、十年に一回大パンデミックが、三年に一回小パンデミックが発生している。「周礼・天官」にあるように「疾医は万民の病気をみるが、しょっちゅう疫病が発生している」状況だった。

 2002,3年のサーズから、2019,20年の新型コロナ肺炎まで十六、七年しか経っていないので、恐怖を感じる。

 殷墟から発見された甲骨文字には「虫、蠱、瘧疾」などの文字がある。「癘」という文字は「尚書」、「山海経」、「左伝」に見られる。

 紀元二年、青周で大パンデミックがはっせいし、漢の平帝が薬を準備するよう詔書を出した。

 建安二十二年(217)冬、北方で疫病が発生し、陳琳、劉楨らが亡くなった。当時太子だった曹丕は次の年に呉質に出した手紙の中で「以前病気が流行り、知り合いを亡くした。痛感の極みだ」と書いている。

曹植は「疫を説く」の中で当時のパンデミックの悲惨なありさまを「建安二十二年病が流行し、それぞれの家で死者が出た。皆嘆き悲しんだ」と書いている。

 晋の恵帝の時(306),」飢えと病が頻繁に発生し、十万人が死んだ」(資治通鑑)。永嘉年間(307-312)戦乱が頻発し、雍州以東は「多くの人が飢えてさすらった」また、「大パンデミックが発生し、飢えと相まって河川は死体で溢れ、野は白骨だらけだった」406年劉裕は蜀討伐に五千人の兵を出したが、大パンデミックのため「死者多数」となって、撤退した。兵士の十分の一しか生き残らなかった。隋の開皇十年(590),首都の長安でパンデミックが発生した。大業八年(612)山東と河南で大洪水が発生し、その後パンデミックも起こった。山東のありさまは特にひどかった。

 唐の代宗の広徳元年(763)江東で大パンデミックが発生し、「半数以上」が死んだ。パンデミックを描いた詩を集めれば一冊の分厚い本ができる。唐朝だけでも三百首以上だ。唐時代は、初めから終わりまで人々はパンデミックで苦しんでいた。  

……

 二十世紀、毛沢東の時代にも住血吸虫による大パンデミックが、江西省余江県で発生し

毛沢東が「瘟神を送る」という詩を詠んでいる。

 緑水青山むなしく自ら多とす

 華佗もいかんともするなき小さき蟲を!

 千村薜荔として人遺失し

 万戸蕭疏として鬼歌を唱う

 地に座して日に行くこと八万里

 天を巡りてはるかに看る一千の河

 牛郎問わんと欲す瘟神の事を

 一様に悲歓ゆく波を逐う

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