多田敏宏:中国の食と病と文学のブログ

中国の食と病について文学の点から見てみたいです。

酒とインスタントラーメン、宗璞

  酒は芸術だ。酒は人を陶然とさせ、飄然とさせ、意識を失わせて、まったく別の世界に導く。その世界では、人はこの世の束縛から離れ、自由自在だ。せわしさや煩いも忘れられる。それゆえ上手に酒を飲む者を酒仙と呼び、酒におぼれる者を酒鬼と呼ぶ。酒人、とは言わない。酒を飲めば仙や鬼の世界を行き来できるのだ。偉大というほかない。それに酒の味は美しくて、素晴らしい。酒を発明した人はまさに聡明だと、ずっと思ってきた。
 酒は味がいいので、私は好きだ。が、あまり飲めない。酒文化についても、研究していない。それは一種の贅沢な学問ではないだろうか。人に黄か白かどちらがいいかと問われれば、黄が好きだと答える。金銀の話ではない。黄酒は熱くして飲まねばならず、東洋の風格を備えている。以前出回っていた即墨老酒は、煙のような香りが少ししたが、よかった。現在で回っているものも、いい。ただ、私は多くは飲めない。生まれたときは酒用の「腸」を持っていたが、何度かの手術で切り落としてしまったからだと言われたこともある。
 酒用の「腸」を持っていたとしても、酒を飲む機会は多くない。印象の深いケースも何度かあるが、飲んだのは黄酒ではなかった。
 雲南開遠のフルーツ酒は、黒みがかった赤色で、甘い味だ。子供の頃昆明にいたが、正午大人が昼寝をしているときに、兄や弟と一緒によくその酒をこっそり飲んでいた。蜜のようで、とても口当たりがよかった。が、思わぬことに、後になって酔いが回り、頭が痛くなってきた。それでも飲み続けた。痛む頭を抱えて母のところに行った。母は頭痛の原因を見出し、酒の瓶をしまい込んだ。当時私と弟は同じ部屋にいたが、兄は窓が直角で向き合っている部屋にいた。兄は二つの部屋の窓をロープでつなぎ、そこに小さなかごをぶら下げ、メモをそれに乗せて、電話代わりにしていた。そういうふうにして情報を伝え合うのはとても面白かった。三人顔を合わせているときは話さず、部屋に帰ってからメモに書くのである。色々なことを書いたが、えせ風雅な飲酒詩も書いた。現在、兄は生きているが、弟は死んでいる。兄は外国にいるが、ちょくちょく国際電話をかけてくる。声は市内電話よりはっきりしている。
 海淀の蓮花白酒は、ピンク色と薄緑色のものがあり、極めて芳醇な味だ。清華で勉強していた時、仲のいい同級生と夜のキャンパスで飲んだことがある。酒は燕京門外の店で買った。二人で生物館の階段の上に座り、館の前の灌木の茂みを眺めながら飲んだ。そこからは輝くような小川が流れ出ていた。遠くないところに気象台があったが、当時はとても高く見えた。西側は円明園だ。蓮花白酒はフルーツ酒よりはるかに味わい深かった。美酒を味わいながら、古今について語り合うのはとてもロマンチックだった。酒に対する興味よりも、自分たちのロマンそのものを楽しんでいた。が、もしあの艶麗な酒がなかったら、ロマンは楽しめなかったかもしれない。酒は話の興を増し、話は酒のよきつまみにもなるのだ。当時の対話は鋭くて想像にあふれており、仮に今聞いたら、意外に思うところも多いだろう。その仲のいい同級生は、現在はアメリカ問題の専門家だ。清華の友人たちの大部分は老け込んでおばあさんになっているのに、彼女だけは勇敢に前進している。が、酒は飲んでいない。
 もう一つ深く印象に残っているのは、1959年農村に下放され労働鍛錬を受けていた時の飲酒だ。一年の期間が終わって北京に帰るとき公社が送別会を開いてくれたが、高粱酒を飲んだ。透明で清水のようだったが、度数は高かった。農村では確かにいろいろ勉強したし、益するところもあった。が、長期間の滞在は、だれも望まなかっただろう。送別会を開いてくれたということは北京に帰れるということなので、重荷を下ろしたように感じた。また、公社も私たちの成績を評価してくれた。喜んではいたが、それぞれが異なる経験をしていたので、酒の味は複雑だった。
 後者の幹部は豪快で情熱的な人で、順番に乾杯した。送別の一般的なテーマで乾杯した後、至高のテーマが出された。「毛主席のために乾杯!」と言って、皆が飲んだのだ。私は初めから酒をハンカチに吐き、そのハンカチも何度か取り換えており、それ以上は無理だった。そのテーマで何杯か飲んだ後は、席を立つしかなかった。席を立って部屋に帰ると、何人かが後を追ってきて、杯を高く挙げ「毛主席の健康のために!」と叫んだ。それが終わらぬうちに、私は我慢できずに吐き出した。幸い「文革」よりかなり前のことだったので、だれも問題にしなかった。そうでなければ北京にも戻れなかったかもしれない。
 私たちの仲間の男性も数人酔いつぶれ、オンドルで寝ていた。公社の書記が心配して見に来て、酔いを醒ますスープを用意してくれた。あの時の飲酒はまさに真剣勝負で、今思い出しても豪快だった。
……
 私のような貧乏くさいインテリも、日常生活をやりくりしなければならない。酒よりも、まず食事をきちんとしなければならない。一家の老人と子供にご飯が出せないので、インスタントラーメンを出すこともある。それゆえ私はインスタントラーメンを称賛しており、その発明は酒の発明に劣らないと考えている。その後、インスタントラーメンを発明したのは日本籍の中国人であることを知った。またその人は日本の飲食業界で高く評価されているということだったので、大いなる慰めを感じた。
 私の勤務先での昼食は、インスタントラーメンだ。何人かでテーブルを囲んで食事をするとき、私はいつもインスタントラーメンは便利でおいしいとたたえている。「インスタントラーメンが好きなんです」と食べながら語っている。
 「それはしょっちゅう食べているわけではないからですよ」と、ある同僚が微笑みながら、率直に言った。
 私は愕然とした。
 この文は1987年の末が締め切りなので、ここで結論を出さねばならない。インスタントラーメンは必要だが、酒はあってもなくてもいい、ということだ。興ざめな話だが、ここで終わる。
 1988年が始まり、十日間インスタントラーメンを食べ続けた。様々な名目の添え物を麺に入れても、似たようなものだった。「しょっちゅう食べているわけではないからですよ」という言葉は筋が通っている。ずっと食べ続けた結果、必要とする量が日ごとに減っていった。
 人生においてはインスタントラーメンで飢えをしのぐことも必要だし、酒を楽しむことも必要だ。
 いつになったら、黄酒を上手に飲めるようになるのだろう。

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