多田敏宏:中国の食と病と文学のブログ

中国の食と病について文学の点から見てみたいです。

水曜日の晩餐、宗璞

 去年、春の来た頃、私は病院にいた。小さな花園の中の土が湿り気を帯び、小さな草が忽然と緑になったのを見て、言葉にできないような慰めと興奮を感じた。「生きているのは本当に素晴らしい」と小声で自らに言った。
 当時はどうやって治療とタイアップするか毎日考えていた。元気を補うため、飲食が重大事になった。普段私はものぐさで、「食べなくてもいいから料理はしない」を原則にしていた。もちろん他人が作った美味しいものには興味を持ったが、自分で作るのは面倒だった。病気になったので、他人が作って私が食べるのが当たり前になってしまったが、口に合わないかもしれないと考えた。料理を作ってくれたのは夫と姪の馮枚、近くに住んでいるいとこと長年の友人である立彫さん夫妻だった。
 立彫さんは聞一多先生の次男で、私と同い年だ。私と彼の兄立鶴さんは同じクラスだったが、なぜか長男より次男の方が親しかった。立彫さんは私の病気について知った後、毎週水曜日の晩餐を夫と共に届けてくれるようになった。普通は水曜日は見舞いはできないのだが、色々言葉を尽くして病室に入ってくる。いつも立彫さんは自らの勝利を興味津々と話した。その後私の体の具合がだんだん良くなったので、私自身が階下に行って食事を受け取った。彼が食事の入った箱をぶら下げて廊下を歩いてくる姿を見るたびにかすかな驚きを感じた。私たちも老いたと思った。
 素晴らしいチキンスープのラーメン!油はきれいに除去され、翡翠のような野菜の葉がいくつか見える。食欲が増進する。ある時はビーフン!どんな調味料を使ったのか知らないが、私は一碗丸ごと平らげた。立彫さんが「次は何が食べたいの?」と聞いたので、私はすぐ「醸皮子」(陜西の料理)と答えた。「色々考えるね。あなたは生まれた時から誰かがつかえないとダメみたいだね」と笑って言った。
 次の水曜日、果たして醸皮子を持ってきてくれた。作るのに手間ひまがかかるのに。味はいつものように濃厚だった。箱の中にはナツメを何粒か置いた小皿もあった。調味料にニンニクを使ったのでニオイ消しにナツメを食後食べるのがいいと、立彫さんが言っていた。
 もし病気が治らなくても仕方がないかもしれないと、その時私は思った。
 立彫さんは夕飯だけではなく、本も持ってきてくれた。その多くが抗日戦争時の昆明での生活に関するものだった。1945年の1月に聞一多先生と一緒に石林に行ったときのことを話したことがある。聞先生が口にパイプをくわえた写真は石林の近くの尾沢小学校のグランドで撮ったものだ。
 「その写真、私は持っていないわ」と言うと「焼きましして持ってくるよ」と立彫さんは言った。果たして、その次に写真を持ってきてくれた。普通のものより大きかった。聞先生の目は生き生きと輝いており、私たちを見ていた。パイプからうっすら煙が立っているようだった。
 聞先生の後ろ側に、痩せた子供が地面に座っている。服ははっきりしないが、髪が少し長く、曲がっている。
 「わ!」私は声を上げた。「これ誰?」
 もともと反応の遅い夫がこの時はすぐにわかったようだ。夫は子供の頃の私を見たことはないのだが。「これは誰って?僕たちの病人じゃないのか!」
 立彫さんはもともとそんなに注意していなかったが、この時は認めた。私の傍に若い人が一人写っていた。立彫さんでもなく、弟でもない。当時の知り合いだろう。
 私は本来孤高を認じ、写真は好きではない。この時はどうしたのだろう!聞先生にくっついていたわけではないが、見事に写っている。それに五十年経ってやっと気づいた。自分が聞先生と一緒に写っているのを見て、楽しさを感じた。
 昆明にいた一定期間、私たちと聞家は隣同士だった。家の前にテーブルほどの大きさの土地があり、そこにエンドウなどを植えていたので、若葉の先をつまんで遊んでいた。母と聞家のおばさんはいつもそこでおしゃべりをしていた。弟は立鶴さんに立って足を洗う方法を教えてもらい、私にも伝えてくれた。それは腰掛の上にたらいを置き、人は地面に立って、両足を交互に洗うというものだった。私たちは洗いながら笑い合った.。立鶴さんは才覚のある人で,絵や芝居もうまく、英語も上手だった。それらを十分に発揮していれば、弟の立鵬さんのような芸術家になれたはずだ。が、残念なことに、1946年に喜一多先生が暗殺されたとき彼も一緒にいた。また1957年に誤って批判され、処分を受けた。このような苦しみを受けて、長期間抑うつ状態に陥っていた。彼は1981年に病気で世を去ったが、同世代の中では一番早かったのではないか。
 あの時の石林行は西南連合大学の学生が組織したもので、聞先生にも参加を要請した。当時、立鶴、立彫の兄弟と私と弟は連合大学付属中学の生徒で、聞先生についてきたのだった。まず汽車に乗って路南まで行き、そこから馬に乗った。当時は綿入れの服を持っていなかったので、荒野で風に吹かれて馬に乗っていると、寒さが体にしみこんできたのを覚えている。尾沢まで馬に乗り、尾沢小学校に宿泊した。それ以降はどこへ行くにも徒歩だった。最初に石林に行って、神業のような様々な形の岩石を鑑賞した。次に滝を訪れた。最も印象に残ったのは尾沢の近くの長湖だ。湖岸の岩石は秀麗で、樹木の品種はとても多く、水面に映った緑の影がかすかな光を放っているように思えた。水面はとても安らかで、美の極みだった。それ以降、こんなに純粋で美しい湖を私は見たことがない。1980年に昆明に戻り、再び石林に行ったが、いろいろなところに人の手が加えられ、「神業」という感覚は希薄なものになってしまっていた。誰も長湖のことは取り上げず、私も行こうとは思わなかった。俗世からかけ離れた純粋さが人工的なものに染まっているのを恐れたのである。
  写真に風景は映っていない。当時の大学生の組織活動の目的は風景ではなかった。ただ私はものがわからず、グランドでみんなで輪になり、「阿西跳月」というダンスをしたことしか覚えていない。聞先生が話をされ、大学生が詩を朗誦したり歌を歌ったりしていたが、内容は忘れてしまった。
 1980年に聞先生の衣冠塚に詩を一首書いた。その後半に「パイプの火が長湖畔の蒼茫たる暮れの靄を照らした。この塚には衣冠のほかに、それもある」という言葉がある。写真の中にはそれだけではなく、私もいたのだ。
 聞先生が暗殺されてから、清華は住宅を提供しなくなった。私の父母は聞さんのおばさんと子供たちを白米斜街の家に住まわせた。私たちは後ろ側の建物に住み、立彫一家は前の建物に住んだ。いつも立彫さんと私、弟の三人で並んで自転車に乗った。当時は今のように道が混んでいなかったので、三人が並んで走っても何も言われなかった。当時北海で撮った写真が数枚残っている。立彫さんと私が白塔の下で写っているものがあるが、私の髪は聞先生の後ろに写っていたあの写真の時と同じだ。その後私たちは清華に移り住み、彼らは組織の手配で解放区に行った。あっという間に数十年が過ぎた。
 昆明にいたとき、教授たちの生活はひっ迫していたので、家計のために色々なことをやらざるを得なかった。聞先生は金石に長じ、美学と古代の文字に対する造詣が深かったので、印鑑を彫刻していた。石の印鑑は一文字1200元、象牙の印鑑は一文字三千元だった。立彫、立鶴兄弟にとっては勉強のいいチャンスで、徐々に学び、手伝うようになった。立彫さんは革命に参加した後長期間宣伝工作に従事し、1988年に退職した。その後は家で「聞一多全集」の「書信巻」の編集をする傍ら、浠水の聞一多記念館の設計や展示の編集も頼まれている。最近「人民英烈聞一多」という聞先生のアルバムの編集にも着手するとのことだ。退職しても、いろいろ忙しいようだ。
 子孫というのはとても重要なようだ。聞先生には子だけではなく、孫もいる。「聞一多年譜長編」は立彫さんの子の聞黎明さんが編纂した。黎明さんは資料を詳細に調査した。昆明まで行って古い新聞を調べたり、私の父の資料も調査した。聞先生の「住居」の写真を私に郵送し、本物か確認してきたこともある。それは本物ではなかったが、三代目の人が深い関心を寄せていることに、私は感動した。
 私の父が一昨年に亡くなった時、立彫さんは心のこもった手紙を送ってきた。手紙にはきょうだい四人の名義で花輪をささげたと書いてあり、次のようにも書いてあった。「お父様が亡くなられたのは国家と人民にとって重大な損失です。私たちが一番困っていた時に、お父様とお母さまが心配してくださり、援助し慰めてくださったことは永遠に忘れません。私たち二つの家の二代にわたる友情は、決して消えることのない美しき思い出です」
 テーブルほどの大きさのエンドウ「畑」から、長湖にかかった暮れの靄から、友情は続いている。水曜日の晩餐を通して、また続いていく。私は孤独だが、多くのものを有している。私を知り、私を愛してくれる友人、多くのいとこ、そして先代の友情を受け継ぐそれぞれの家の人たちーー
 「文革」中の惨憺たる重病と比べると、今回の病は風光に満ちている。この世界から離れることができようか。
 生きているのは本当に素晴らしい。


 

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