多田敏宏:中国の食と病と文学のブログ

中国の食と病について文学の点から見てみたいです。

燕園の老いゆく人々、宗璞

「燕園の老いゆく人々」というタイトルは、ずっと心の中にあった。当初は父と同世代の人々の老いを書こうと思っていた。まず行動が不便になり、その後車いすを使い、結局移動できなくなる。近年、燕南園では若い人がどんどん少なくなっている。隣近所でももともと元気に歩いていた人がきらきら光る歩行器を使うようになり、もともとよぼよぼしていた人が人に支えてもらうようになった。私たちの隣人である物理学や磁学の専門家褚聖麟教授は九十歳を超えているが、数日前燕南園の近くで家に帰る道がわからなくなった。当時は小雨が降りしきり、日も暮れていて、暗く黄色に光る街灯一つだけがよろよろ歩く老人を照らしていた。幸いなことに学生が褚先生の家に知らせた。が、老先生は迎えに来た人がだれかわからず、「どなたですか?どこに行くのですか?」と尋ねた。

 「どなたですか?どこに行くのですか?」これは永遠の問題だ。それを聞いたとき、私の心は寂しさでいっぱいになった。人の歩む道はそれぞれに異なるので、「どなたですか?」だ。道の行きつくところは野百合が咲き乱れており、人は生まれた時からそこに向かって歩き続ける。それが「どこに行くのですか?」だ。
 父の死後、燕南園では平穏な二年が過ぎた。そして江沢涵先生と夫人の蒋守方さんご夫妻の知らせが届いた。
 江先生はトポロジーを中国に紹介した方で、幾何学の権威だ。昆明の西倉坡で、私たちの向かいの家に住んでおられ、燕南園では数十年隣同士だった。江先生は三人の男の子と一緒に私を馮ねえさんと呼んでいた。彼はもともと耳が悪く、喉のがんも患っていたので、話すのが困難で、いつもいらいらしていた。江家の弟たちによく「馮さんを見習ったらどうですか。いつも心穏やかにしておられますよ」と言われていた。江、蒋ご夫婦の死は十日と離れていなかった。江先生が亡くなったとき、蒋さんが先に死んだことは知らなかった。二人とも最後の時間は病室で過ごし、子や孫が知らせてくれただけだ。ある時江さんの家を訪ねたことがある。ちょうど部屋を修理していて、中は散らかっていた。江先生は点で家具や道具を表示し、線で距離を表示してグラフ図を作り、その通りに配置するよう言っていた。が、先生は私に「残念ながら馬の耳に念仏だ」と説明しておられた。江先生の弟は江先生の墓石にトポロジーの図形を刻む予定だと言っていた。そのトポロジーの図形が多くの墓石に交じっているのを想像すると、暗い気持ちになった。
 十月に香港に行った。十日もたたないうちに帰ってきたのだが、張竜翔先生の死を聞いて、とても驚いた。張先生は生物化学者で、80年代に北京大学の学長を務めたことがある。九月に老婦人が何人か張家に集まったとき、私も行かせてもらったのだが、その時は先生はまだ歩いておられた。張先生はだいぶ前にがんを患い、近年それが頸椎に転移して、ベッドから起き上がれなくなり、危険な状態になった。だが、医療と家人の心のこもった看護のおかげで、立ったり歩いたりできるようになり、会議にも出ていた。張先生はがん闘病の星だと私はいつも言っていたが、どうして突然亡くなられたのか。五十六番の部屋は周培源先生が去ったあと、再び主が去り、庭の樹木だけが以前と変わらない。
 そして、私が「燕園の老いゆく人々」というテーマで文を書こうと思ったのは、自身の老いを目の当たりにするようになったからだ。長年私は病と闘ってきたが、勝てるものだと考えていた。人は病に勝てる、人は病より強いと私は信じていて、病を得た友人をそう言って励ましてきた。老舎の「牛天賜伝」の中で牛天賜が恨みがましく「頭のてっぺんから足の先まで痛い」と言う場面がある。そのような体全体の発作は私にはないが、頭のてっぺんから足の先まで交代で不具合が出てきた。ここの次はあそこが悪くなった、という感じだ。最近忽然と感じたのだが、これらの煩いは病だけではなく老いも原因なのである。そして老いは逆に進めることができないので、勝つのは不可能だ。
 五月のある日、私は階段を下りて中庭に干している服を片付けようとしていた。自分は元気いっぱいだと思っていたのだが、階段から転げ落ちて、足をくじき、中足骨を折ってしまった。一家全員がこのため三か月以上もがき続けた。まず大学の病院に行ってレントゲンを撮ってもらい、石膏を塗り、最後は漢方薬を煎じて足を洗った。車いすで集会に二度参加した。七月六日華芸出版社が希望工程に本を寄付した。その中に新しく出版された私の「宗璞文集」も入っていたので、車いすで参加した。車いすでやってきた私を見て、人々はどう思っただろう。また、北京大学の聞一多先生を記念する行事にも、私は車いすで出かけた。会議ホールは二階だが、エレベーターはない。北京大学副学長の郝斌同志は私を見て、「どうしよう!動かずに待っていてください」と言った。すると数人の若い人がやってきて、私を持ち上げて二階まで運んでくれ、会議が終わると、また持ち上げて下までおろしてくれた。目の前の人がはっきり見えたわけではない。彼らはとても若く、青春の力量が私を持ち上げ、上に運んだり下に運んだりしたことしかわからなかった。一人一人に礼を言うすべはなく、「ありがとう、ありがとう」とつぶやくしかなかった。友人たちは私が転んでけがをしたことを知り、「これは警告だ。もう老いたのだから、何でも注意しないといけない」と私に言った。
 その通り、もう老いたのだ。

 子供の頃からの友人徐恒さんは物理系の学生だったが、我が国最初のアナウンサーになった。いつも電話をかけてきてどのくらい治ったのか聞いていたが、もう石膏を取り、漢方薬で洗っているところだと答えると、見にくると言った。やってきて座り、よろよろ歩く私を見ると、「きちんと歩きなさいよ。ゆっくりでもいいから、びっこをひいたらだめよ」と話し、夫に「あんなふうに歩かせたらダメですよ」と言った。彼女の言葉を聞いて私は感動した。こんなに私を心配してくれる人がいるんだなと。きょうだいと言えるくらいの仲間たちの中で、彼女は「長女」だ。徐炳昶先生の長女なので、そういう役割には慣れている。徐炳昶先生も、河南の唐河の人で、三十年代に北平研究院歴史研究所の所長を務めた。唐河には伝説があり、どの王朝の時だったか、風水の先生の意見に基づき、人材が輩出するようにと、街の四隅にそれぞれ塔を建てようと計画した。が、おそらくは資金難で二つしか建てられなかった。それゆえ有名な人は二人しか出なかった。(実際は唐河は多士済々だ)その二人が馮友蘭(筆者の父親)と徐炳昶だという。私たちの家ど徐さんの家は親戚のようなもので、徐恒さんが世代が一つ上にあたる。……

 話が冗長になった。以前は緻密な文章を書いていたのだが、老いてしまったのだろう。もう一つ困ったことがある。九十年代に入ってから、私は毎年十月になると気管支炎を患うようになった。咳が激しく、よく眠れなくなるのである。毎年南へ行くのは面倒なので、夫が暖房装置をつけてくれた。学校のスチーム供給に先行して、自分で部屋を暖めのである。夫は自ら火をつける役を担ってくれた。階下に夫が降りていきストーブをつけるのを見て、転びはしないかといつも心配だった。ある日夫が言った。「あと何年か経って、僕が動かなくなったら、どうするんだい?」

 どうするのか?考えるまでもない。あと何年か経ったら、暖かな部屋を私が必要としているかどうかさえわからないのだから。

 南方から帰ってきて十日以上経った。ある晩雨が降った。天は暗く、地面は湿った。本来ならまだ緑のはずのタマノカンザシが一晩の間に枯れて黄色くなった。王国維の「静安文集」を読んでいると、「天の色が病人のように寂しい」という言葉が目に入り、思わずゾッとした。また「人間詞」の中の「この世で最もはかないものは二度と戻ってこない青春と木から落ちた花だ」、「あなたが今日見ている木の花は、去年咲いたものではない」という文を思い出した。そしてフランスの詩人ヴィヨンの「去年の雪は今はどこにあるのか」という言葉も思い出した。去年の花と雪は二度と戻ってこない。今年は今年の花と雪だ。……

 雨が止んだので、杖をついて門の外に出た。地面に燦々とした黄色が円形に広がっていた。華麗な絨毯のようだ。門のところの銀杏の大木の落ち葉だ。大木を見上げると、すっかり葉の落ちた枝が天空に線を描いている。木は転ぶことはないし、杖もいらない。だが、老いる。その速度が人間より少し遅いだけだ。

 門の外から南へまっすぐに道が伸びている。その両側には若い銀杏の木が並んでいるが、葉は全て落ち、清掃されている。その道は学生宿舎に通じている。若い人が若い木の下を行き来するのだ。ふりかえると、塀のそばの枯れたコウシンバラの木が目に入った。なんと、赤い花が二つ咲いている。上を向いて、とても鮮やかに。

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