多田敏宏:中国の食と病と文学のブログ

中国の食と病について文学の点から見てみたいです。

杜甫(712-770)のカルテ、雪小碧mm

千二百年前の天才詩人も「生老病死」の苦しみは避けられなかったようです。


 杜甫のイメージというと、しわだらけの顔と憂いが思い浮かぶ。身を横たえて何かを見つめ、心配げに国を憂い民を憂いている画像だ。痩せてはいるが、体はそんなに弱そうには見えない。
 実際は、杜甫は四十歳を過ぎてから多くの病を患い、貧困と病の中、最後は湘江に浮かぶ小舟の上で息を引き取った。
 青壮年期の杜甫は、体の状況は良かった。子供の頃一度病気をしたほかには、三十五歳以前の詩文には病や衰えという概念がほとんど出てこない。彼は「百憂集行」という詩の中に自らの少年時代を書いている。「十五歳の少年になっても童年の活発な気持ちを持ち続け、子牛のように元気だった。庭のナシやナツメが八月に熟すると、一日千回木に登ってもぎ取った」誇張があったとしても、少年時代の健やかさと活発さがうかがえる。彼の青年時代は「漫遊」の時代だった。江東に遊び、山川を渡り歩いた。馬に乗って狩りもしたし、弓矢もたしなんだ。体が丈夫でなければできないことだ。青年時代は病気と無縁だった。
 中年になり、杜甫は官職を求めて長安で十年間過ごした。この時期に彼の体は徐々に衰弱していった。ことに四十歳を過ぎてから、失意の杜甫に貧困と病が襲い掛かった。馮至の「杜甫伝」によると、751年の秋、秋の長安に雨が降り続き、長い間晴れることがなかった。杜甫は寄寓する旅館の中で秋の間ずっと病に苦しんでいた。旅館の門の外にたまり水ができ、そこで小魚が泳ぐようになった。ベッドの前の地面には苔がびっしりと生えていた。杜甫は肺がもともとよくなかったが、このときに重度のマラリアを患ったのだ。
 病気が少しよくなると杜甫は王倚という友人の家に行き、詩を詠んで病の状況を伝えた。「秋の三か月間マラリアで耐えられないほど苦しい、百日の間に寒と熱が交互に襲ってくる。頭は白く眼は暗くなり尻にできものができた、皮膚は黄ばんでしわだらけ、命は糸のように細い」自分が病魔にさいなまれ、秋の間中マラリアに苦しんだと言っているのである。頭が白くなっただけではなく、目もぼんやりしてきて、顔は黄色くなって体はやせ衰え、生命は一本の糸のようにはかない状態になったというのだ。
 詩人の描写なので、多少の誇張はあったとしても、四十歳前後の杜甫は病でよたよたしている老人というイメージだ。そして、このとき彼は自らに「少陵野老」、「杜陵野老」などの称号を使い始めたのである。
 長安で長年志を得なかった杜甫は、詩人高適に贈った詩の中で「三年たってもマラリアが治らない」と書いている。杜甫は詩の中でマラリアの発症状態を正確に記録している。マラリアの特徴は、寒さによる震えと高熱、大汗が定期的周期的におこることだ。杜甫の詩の中の描写を分析すると、患っていたのは隔日で発作が起きる「三日熱マラリア」だったのだろう。
 マラリアと肺病のほかに、杜甫は長期間風痺症、今でいう痛風も患っていた。長期間の流浪と舟の上での生活が、それを悪化させ、四肢がしびれて痛み、関節を曲げるのが困難になっていた。晩年になって、「老妻は足がマヒしているのかと問い、幼子は頭が痛いのかと問う」と詩に書いている。風寒湿の三つの気が混じって起きる病に彼は苦しみ、痛みに苦しみ、歩くのも不便だった。
 杜甫は詩の中で痛風について多く描いている。発汗を促して痛みを止める作用を持つ薬草を子供に摘みに行かせたという詩も残っている。その薬草を蒸した後服用し、痛風を治そうとしたのだろう。
 夔州にいたときは、杜甫の体は良くなったり悪くなったりだった。マラリア、肺病、痛風、糖尿病にいつも苦しめられ、最後は歯が半分抜け落ち、耳も聞こえなくなった。五十六歳の時に聴力を失ったようで、「耳聾」という詩に「眼がよく暗くなり、耳は前日から聞こえなくなった」と書いている。客が彼と話をするときは内容を紙に書かねばならなかったし、右腕に力が入らなくなっていたので、手紙を書くときは息子に代筆させていた。
 その後杜甫は潭州に移り、一年半を舟の上で過ごした。多病で体の具合も悪く、魚市場に露店を出し、弱った体にムチ打ち薬を売って生活費を稼いでいた。
 杜甫は晩年の詩歌の中で、自らの肺病に何度も言及している。「肺病で衰えた翁」とか「老衰に肺病が加わり枕を高くして寝るしかない」などだ。他に、臨終の一年前に「右腕が枯れ耳が聞こえない」とか「老年なので花を見ても霧の中で咲いているようだ」などと書き、当時の眼の手術についても言及しているところを見ると、糖尿病による白内障、難聴、中風、半身不随、足の障害などもあったのだろう。
 杜甫は生命の最後を、湘江に浮かんだ舟の上で過ごした。舟に横たわり、「風疾に舟中枕に伏し懐を書す」という生涯最後の作品を書いた。「雄鳴の管は調和を失い、半分死んだ心がまだ痛む。旅をしつつ年々病に侵された」この詩を書いて間もなく、五十八歳の杜甫は貧困と病の中あの世に行った。

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