多田敏宏:中国の食と病と文学のブログ

中国の食と病について文学の点から見てみたいです。

飲み物あれこれ、趙珩

 ここで取り上げる飲み物は、アルコールを含まない、いわゆる「ソフトドリンク」だ。
 サイダーは舶来品で、中国に伝わってから百五十年しかたっておらず、香港を割譲してからの時間と大差ない。サイダーが初めて中国に入った時は「オランダ水」と呼ばれていたが、オランダで初めて作られたかどうかは、その方面の研究がないので、はっきり言えない。
 清の光緒帝三十四年に「サイダー管理条例」が公布されている。サイダーの範囲確定や製造管理、輸入原料の検査や衛生管理などについて厳格に規定されており、当時サイダーの製造と販売が普遍的だったことがうかがえる。
 まだ小さかったころ、祖母が何度も東北で飲んだ「鉄路サイダー」の話をしていた。サクランボが二粒サイダーの中に入っていたそうだ。時期を推計してみると、祖母がこの「鉄路サイダー」を飲んでいたのは、1925年から1927年にかけてだろう。祖母はハルビンの「クワス」

のこともよく話していた。「クワス」はパンを原料として発酵させて作り、酒とは異なる部分がある。祖母が言っていたハルビンの「クワス」は、当時東北にあった「白俄」という会社が作り、売っていたものだ。私は生まれたのが晩かったので、どんな味かは知らない。1950年代中期、北京展覧館(当時はソ連展覧館と言った)でモスクワレストランが開業し、「クワス」もあった。今日のビール瓶と同じくらいの大きさの瓶に入っていたが、グラスに注ぐとビールよりやや深い色で、さわやかな甘みがあり、泡が多くて、食欲を増進させた。

 1930年代になると中国のサイダー生産は成熟に向かい、多くの有名ブランドが出現した。「馬宝山サイダー」と「正広和サイダー」は1930、40年代のブランド品だ。

「コカ・コーラ」、「スプライト」、「ファンタ」、「ペプシコーラ」が大量に入ってくる前は、中国産のサイダーもよく売れた。そのうえ各都市の人は、自分の地域のサイダーに愛着を持っていた。たとえば北京の人は「北氷洋」を愛飲し、


天津の人は「山海関」を愛飲し、


上海の人は「正広和」を愛飲し、


瀋陽の人は「八王子」を愛飲し、

しかもそれに誇りを感じていた。

 サイダーとともに果子露(シロップのようなもの)もあった。

一番低級なのは街角で売っている果子露で、大部分は自家製、緑のものもあれば赤のものもあり、確かに人目を引くのだが、大半のものは色素を使っており、サッカリンや香料も使っていた。露店では果子露を大きな木の桶に入れ、周囲に氷を置いて冷やしていたので、夏の街角では確かによく売れた。もう少し高級なものは瓶詰で、濃縮果汁を用いていた。

一番高級なのはブランドメーカーが出していたもので、たとえば馬宝山汽水廠などが売っていた果子露だ。瓶に登録商標を貼っていた。


果子露は濃度も適切で、瓶を開けると一気に飲めた。中国では、サイダーより果子露の方が歴史がはるかに長い。「紅楼夢」に記載されている「西洋玫瑰卤」は果子露を濃縮したものだろう。


 広州の涼茶は茶と言うより、飲料と言った方がいい。多くの漢方薬を用いて作ったもので、変わった味がするので、北方人には向いていない。「王老吉涼茶」

は広州で最も有名だ。聞くところによれば、王老吉は最初は天秤棒で売っており、もうけもわずかだった。一群の外国人が広州にやってきたとき、たまたま疫病がはやり、王老吉を飲んだところ、吐いたり下痢をしたりした。王老吉を売っていた人はとんでもないことになったと思い、何日も外に出られなかった。が、それらの外国人は吐いたり下痢をしたりした後、すっかり元気になり、疫病が治ったのである。王老吉に感謝し、彼らは多額の金銭を贈った。王老吉はこの金銭で経営を拡大し、「王老吉涼茶」は広州に広まった。その後香港、クアラルンプール、シンガポールなどにも販路を拡大したのである。

 酸梅湯は中国で最も伝統がある飲み物だ。夏に飲むと暑気を消し、渇きを解く。

 街角や路地裏を歩いて酸梅湯を売っていた人たちは、手押し車に木の桶を乗せ、果子露と一緒に販売していた。彼らの酸梅湯は質が劣り、薄くて、あまり清潔ではなかった。が、氷で桶を冷やしていたので、とても冷たく、一杯おなかに入れると、暑さが消し飛んだ。
 かつての北京で酸梅湯の御三家と言えば、信遠斎、豊盛公、通三益だった。それぞれに特色があったが、上質の燻製梅を用い、何度も煮込んで余分なものを取り去り、氷砂糖を使って濃度を増していた点は共通している。信遠斎は最も伝統があり、燻製梅と氷砂糖のほかに、モクセイ(桂花)を最も多く使用しており、「桂花酸梅湯」として多くの客を呼び寄せている。

その場で氷で冷やしたものを販売していたが、他に紙の箱に入れた「桂花酸梅糕」も売っていた。客はそれを買って家に持ち帰り湯で自ら酸梅湯を作るのである。店舗で飲む酸梅湯より味も色も落ちたが、「桂花酸梅糕」そのものを食べてみると独特の風味があり、他地方から北京に来た人がお土産に数箱買っていた。豊盛公は旧東安市場北門内にあり、東来順からあまり離れていなかった。乳製品の販売が主で、チーズ、嬭卷、

嬭饽饽

などを扱い、酸梅湯は夏の間だけだった。…旧東安市場が取り壊され、豊盛公も消えた。聞くところによると、乳製品関係の業務は梅園乳品店が引き継いだそうだ。確かに梅園でもチーズなどを売っているが、品質は豊盛公と比べ物にならない。酸梅湯の技は跡を絶ってしまった。通三益は前門外にあった。秋梨膏

が最も有名で、子供の頃咳が出るたびに、かなりの秋梨膏を食べさせられたので、反抗心を抱くようになった。この反抗心が通三益という名前と結びつき、通三益の酸梅湯はずっと飲んでいない。

 以上の三店の中で、今でも酸梅湯を扱っているのは信遠斎だけだ。が、かつてのようにその場で造ったものを氷で冷やして、客に飲ませる酸梅湯ではない。いくつかの小売店を設営して売っている。酸梅湯は二種類だけで、一つは瓶詰でふたを開けて飲むもの、もう一つは様々な容量の濃縮した「桂花燻製梅汁」だ。製作工程が変わったからか、氷砂糖の比率が不十分で、かつての信遠斎の酸梅湯とは違ったものになってしまっている。「桂花酸梅糕」は、もう長い間見ない。














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