多田敏宏:中国の食と病と文学のブログ

中国の食と病について文学の点から見てみたいです。

初めて豆汁を飲んでから、趙珩

ここでいう「豆汁」は緑豆から作る北京の伝統的な飲み物で、味に癖があるので好き嫌いが分かれます。

 初めて豆汁を飲んでから本当に好きになるまで、二十年かかった。
 1950年代の終わりか1960年代の初めか、現在ははっきり覚えていない。張学良将軍の弟張学銘さんが天津から北京にやってきた。彼は当時天津園林局の局長か何かで、北京に来てからは東四八条の朱さんの家に滞在していた。張学良、張学銘両名の妹が私の祖母だったので、張学銘さんは北京に来てからよく私の家に来た。ある日の午後、張学銘さんと朱海北さんの二人が家に来て祖母とおしゃべりをしたあと、張学銘さんを連れて隆福寺に行き豆汁を飲んでもらうと朱海北さんが言った。当時私たちも東四に住んでおり、隆福時から遠くなかった。私たち一家は北京に久しく住んでいたが、豆汁の味を受け入れている人は一人もいなかったので、私も豆汁を飲んだことがなかった。張さんと朱さんの帰り際、張さんがたまたま部屋で遊んでいた私に「豆汁を飲んだことがあるかい?」と尋ねた。私が「飲んだことはありません」と答えると、張さんは焦ったように「それじゃあだめだ。今日一緒に豆汁を飲みにいこう」と言った。私は豆汁は飲んだことがなかったが、人々がよく話題にするのは聞いていたので、豆乳と同じようなもので甘くておいしいものと思い込んでいた。そこで喜んでついていった。
 当時の隆福寺には山門があり、山門の内部に人民市場があって、北京の軽食を食べさせる店などもあった。豆汁は普通午後になってからで、煮たばかりのものに焦圏(リング状の揚げパン)と漬物をつけて出していた。テーブルにのった豆汁を見て、わたしはあっけにとられた。


灰緑色で、すっぱい、すえたにおいがする。私の想像とはかけ離れたものだった。熱くて飲めないことを口実に、最初は二人の様子を見ていた。意外にも、二人はゆったりと碗を持ち上げ、悠然と飲み始め、時々焦圏と漬物を口に入れていた。しばらくたつと、熱いという口実が使えなくなったので、私は思い切って少し口に入れた。酢のように酸っぱく、すえたような味で、飲み込むのに難儀した。この時張さんがわたしをにらんで、「どうだい?美味しいだろう」と言った。
 祖母と同世代の人だったので、とても断れず、私は気持ちを抑えて一口一口飲んだ。飲み終わると「特赦」を得たような気分になった。すると気分が悪くなり吐きたくなったので、焦圏を無理やり口に入れて我慢した。
 当時私は十歳か十一歳だった。
 二十年くらい後、1979年だったと思う。琉璃廠に行き、午後二時か三時に新華街を過ぎた。新華街には豆汁の専門店が数軒あり、何度も友人に紹介されたが、二十年前の悪い印象のせいで、行く勇気が出なかった。その時、二十年もたてば味の好みも変わっているだろう、どうしようと迷っていると、知り合いの京劇役者にたまたま出くわした。彼は豆汁を飲もうと熱心に私を誘った。毎日その時間に飲みに来ているそうだ。
 湯気を立てている豆汁がきた。彼が一口飲んだので、私も口に入れた。味は受け入れられた。その京劇役者は豆汁について大いに語った。製作方法や飲み方を話し、豆汁のよさをまくしたてた。それを聞きながら飲んでいると、私の口の中で豆汁の味が変化し始めた。一碗飲み終えると、口の中に甘みが残り、余韻が素晴らしかった。彼が「もう一碗飲もう」と言ったので、私は喜んで賛成した。それ以降、豆汁を美味しいと思うようになった。二十年間様々な経験をすると、味の好みも変わるようだ。
 北京の豆汁は、緑豆を水に浸した後ひいて糊状にし、発酵させて作る。豆汁を煮るのにも技術が要る。かき混ぜながら煮るのだが、火加減が大切だ。うまくできた豆汁は豆の質と湯が渾然一体となり、濃度もちょうどいい。豆の質と湯が分解してしまうと、うまくできない。その店のほかに、什刹海ハス市場と西城護国寺の軽食店で飲んだ豆汁が、上質だった。
 北京以外の都市で、豆汁を売っているのを見たことがない。台北に「京兆伊」という北京の軽食の専門店があるが、そこで豆汁を売っているかは知らない。すでに亡くなった作家の梁実秋さんは長年台北に住んでいたが、いつも北京の豆汁を懐かしんでいた。「京兆伊」に豆汁がないか、あったとしてもレベルの低いものだったのだろう。

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