多田敏宏:中国の食と病と文学のブログ

中国の食と病について文学の点から見てみたいです。

ハスの花を食べる、老舎

 今年、二鉢の白いハスを植えた。鉢は北平(北京の旧称)で見つけたもので、内も外も緑の苔でおおわれている。少なくとも五、六十年はたっているだろう。土は黄河のもの、水は
ら趵突泉のものだ。ただ、レンコンは食べ残しを使ったので、少し角が落ちる。鉢も土も水も素晴らしいものを使っているのに、食べ残しのレンコンでは申し訳ない。どうか成長して花を咲かせてくれ。それでないと人にすまないではないか!思いがけなく、茎をのばし、葉をつけ、花を咲かせてくれた。一つの鉢に七つか八つ、白い花だ。花びらの先端が赤みがかったものが二つあったが、ビャクダンの粉を塗ってすべて白い色にした。詩を作ろう。ほかに何ができるだろう。「すらりとして美しい」という言葉を私は七十五回も使っている。私がどれだけ詩を作ってきたか、考えてみてほしい。
 それはそれとして。数日たったら、野菜売りが毎日いくつかの白いハスの花を売りに来た。最初はつらく思った。美しいハスの花をナスやトウガンと一緒に置いているのを見て。少し考えて、はっと思った。そうか、済南には名士が多く、自分ではハスを植えない。ハスを買って古い鉢や清水で栽培し、書斎に置いておくのだろう。そうだ、そうに違いない。
 それはそれとして。友人と大明湖へ遊びにいく約束をした。友人が「ハスの花を買いにいく」と言ったので、「買いにいかなくてもいいじゃないか。僕の家にきれいなのが二鉢あるよ」と答えた。少し不愉快な気分になり、心の中で「僕が植えたのは湖のものに及ばないとでもいうのか」とつぶやいた。そのうえ、とても暑かったので、湖まで行くのはくたびれる。家にいて、ゆでた枝豆をつまみに酒でも飲む方がいい。「自分で白いハスを植えた」ことをテーマにして詩を二つ作れば、とても優雅ではないか。友人は二鉢の花を見ながら、うなずいた。私の気分がよくなったのは言うまでもない。「友人も雅がわかるんだ!」と。この「るんだ」という言い方は新しいタイプの詩を作るときしか使ったことはない。が、このときは使わないわけにはいかなかった!私はあわただしく家の者に枝豆をゆでるよう言いつけ、新鮮なクルミが買えるか確かめた。その後書斎に詩の原稿を探しにいった。友人は花の前にたたずみ、美しさを味わっているんだ!
 それはそれとして。書斎から戻って、見ると、鉢の花は、しおれかけたもの以外、友人が全部もぎ取っていた。私は突然暑さにあたったみたいになった。天地が回り、声が出なかった。でも、友人はとても喜んでいた。「これだけあれば十分だ。湖へ買いにいく必要はない。入口の野菜売りのところにもあったけど、湖のものほど新鮮じゃない。君のものはあまり柔らかくはないが、使えるよ」と言いながら台所に入った。「田さん」と私の執事兼コックを呼び、「これをごま油で揚げてくれないか。外側の古い花びらはいらない。内側の柔らかいものだけだ」と言った。田さんは私が北平から呼んできた人なので、私と同様済南の習慣はわからない。ごま油でハスの花びらを揚げるのは何かの漢方薬の処方だと思ったみたいで、「どんな病気を治すのですか?やけどですか?」と尋ねた。友人は笑って言った。「やけどを治す?食べるんだよ!とてもおいしいよ!野菜売りが売っているのを見なかったのかい?」

 それはそれとして。いや、もう何もない。詩の原稿は燃やしてしまったので、ここには掲載できない。
 (1933年8月16日「論語」第二十三期)

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