多田敏宏:中国の食と病と文学のブログ

中国の食と病について文学の点から見てみたいです。

詩聖杜甫は漢方薬を売って糊口をしのいでいた(中国のサイト)

 杜甫は三十五歳の時(西暦746年)に長安に到着し、十年間滞在した。政治上の挫折を何度か経験し、仕官の道は順調ではなかった。生計を維持するため、杜甫は他人に頼らざるを得ず、幾人かの貴族や金持ちの「賓客」となった。「朝に富児の門をたたき、暮に肥馬の塵に随う。残杯と冷灸と、至るところひそかに悲辛」という詩句から、杜甫が貧困な生活を送っていたことが読み取れる。生計維持のため、杜甫はやむなく「漢方薬販売」という副業を始めた。山野で薬草を採取したり自分で栽培したりして、貴族に渡し、代わりに生活費を得るようになった。これが、のちに杜甫自身が語っている「都市で薬を売り、友人に寄食する」生活だ。
 「安史の乱」の勃発により。関中で飢饉が発生し、杜甫はやむなく官職を捨て、家族を連れて華州を離れ秦州に向かい、「漂泊す西南天地の間」という流浪生活を始めた。
 秦州にいた時、杜甫の生活は極めて困窮し、友人に援助を頼んだり、漢方薬の販売を再開したりした。が、それでも生活は楽にならなかった。「嚢空しくば恐らくは羞澁せん、一銭を留め得てみん」という生活だった。まもなく、杜甫は秦州を離れ、同谷県に行った。一か月ほど滞在したが、薬草の採取や販売で、生計を維持していた。
 西暦759年の末、杜甫は成都にたどり着いた。友人や親戚から援助を得て、次の年の暮に成都草堂を建て、かなり落ち着いた生活を送った。成都草堂の付近に薬草園を作って耕し、クチナシ、チョウジ、クコなどを漢方薬の材料として栽培した。薬草栽培は順調にいき、「野味の供給なきをいとわざれば、興に乗り来りて薬欄をみよ」(賓至)という状態だった。つまり客に「ここの食事がおいしくないのが嫌でなければ、薬草を見にどんどん来てください」言っているのである。杜甫の薬草栽培は、当然鑑賞に供することだけが目的だったのではなく、自身が病を得た時に使うためでもあった。「薬を植えて衰病を助け、詩を吟じてこれにより嘆きを解く」(遠游)ということだ。「多病まつところは唯薬物、微躯にこのほかに何を求めん」(江村)という詩句がこの点を説明している。
 唐の代宗永泰元年(西暦765年)四月、杜甫は一家を連れて成都草堂を離れ、舟に乗って東へ下り、再度流浪生活を始めた。この時の病状はかなりひどかった。もともと糖尿病、肺病、マラリア(長安と秦州、成都草堂で、三度マラリアを患っている)などの持病があったが、それに難聴や目のかすみ、足の不自由も加わった。河川を下って湿気の影響を受けたので、リュウマチはさらにひどくなった。そこで杜甫は夔州に到着してから間もなく、リュウマチに効果のある烏骨鶏

を百羽以上飼い始め、自分で摂取しようとした。が、この時の杜甫の収入は友人の援助に頼っていたので、また薬草販売を始めざるを得なくなり、山中に赴いて薬草の採取に努めた。このときは阿段、伯夷、辛秀、阿稽(女性)などの召使を連れていたが、大半は夔州の彝族だった。杜甫はいつも彼らを連れ風痹症に効くオナモミ

を採取した。
 杜甫は生命の最後の段階で潭州に流れ着いたが、そこでも漢方薬販売で生計を維持していた。
 考証によれば、現存する杜甫の詩に記載されている漢方薬は、辰砂、

シシ、クヌギの実、ニガカシュウ、シャクヤク、クコ、

セキショウブ、ジョヨ、ゴシュユ、ケツメイシ、

ビワ、チョウコウ、

ジャコウ、

など二十種類以上だ。これは歴代の詩人の詩の中では極めてまれだ。

 杜甫は一生に何度も漢方薬を販売しているが、このことから次の二点がわかる。一、杜甫の医薬に関する知識は人並み以上であったこと。それでなければ売れなかっただろう。二、杜甫は漢方薬販売で得た収入で衣食の一部を賄うことができたこと。それでなければ二十年以上の間に何度も販売などしなかっただろう。
 漢方薬は杜甫の生計を維持し、病多き体を整えてきた。杜甫と漢方医薬の物語は、燦爛たる漢方医薬文化の貴重な史料だ。

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