多田敏宏:中国の食と病と文学のブログ

中国の食と病について文学の点から見てみたいです。

宗璞と眼病(1)

   

宗璞という1928年生まれの中国の女性作家が、眼病を患った時のことをいろいろ書いています。
  近視眼から遠視眼へ
 半時間足らずの手術を経て、私は近視眼から遠視眼に一変した。今年六月のことだ。
 私は近視になってから久しい。八歳か九歳の時にある本を読んだが、日がだんだん暮れてきても、手放さなかった。その中の「野は墨のように沈んでいる」という言葉を今も覚えている。抗戦期間中に使用した菜種油のランプで近視が一層進んだ。五十数年間眼鏡をずっとかけており、老年になって白内障を患ったので、眼前はよりぼんやりとしたものになった。「老年になった自分が花を見ると、まるで霧の中のようだ」というのは、だれもが味わう「老い」の境地だろう。
 しかし人間とは尊敬すべきもので、偉大だ。自らを修理して、再び明るくてきらびやかな世界に身を置くことができる。手術後アイマスクの隙間から床を見ると多くの模様が見えたので、自分の目がおかしくなったと思った。尋ねたところ病室の床にはもともと模様があり、私に見えなかっただけのことだった。明るくなったと感じたので、部屋の電球を取り換えたのだろうと思ったが、実は私の目が原因だった。アイマスクを外すと、まず窓を横切る樹木の枝の葉が、とてもはっきり見えた。病院の前にネムノキが一株あることは家族に教えてもらっていたのだが、色もはっきり見えるようになった。近年人を見ても輪郭しかわからなかったが、目の前の医師の眉目がはっきり見えたので、「見えました」と言った。
 最も身近な存在である家族の姿も、ここ数年はぼんやりしていた。今は、夫の髪の毛が薄くなったことも、娘の顔にしわが増えたことも、はっきり見える。生活とはこんなにも確かで、こんなにも暖かなものだったのか。見えるようになったからだ。
 病院の廊下の外にネパール式の白い塔がある。そこに塔があることは以前から知っていたが、家族に「見て、目の前に塔がある」と言われても、私には見えなかった。他人に代わりに見てもらうことに慣れていたので、くよくよすることもなかった。今度わざわざ窓の近くに行って見たのだが、その塔はとても近くて大きく、真っ白で、青空と見事にマッチしていた。おしゃれで、中国の塔とは風格が違っていた。私はこの塔の近くで近視眼から遠視眼になったのだ。塔は友人と言えるだろう。
 高度の近視なので、白内障の手術後、人口水晶体を入れなかった。その結果両目とも遠視になった。物がはっきり見えないときは近くに持ってくる習慣だったが、それをやると一層はっきりしなくなった。が、遠くのものははっきり見えるようになった。正常とは言えないが、私は満足している。帰宅する際に西門を入り、蓮池のそばを通ると、赤い蓮の花が真っ盛りで、花弁の筋がとても生き生きと見えた。蓮の葉に降りた露を、自らなぞってみたいとも思った。燕南園の幾棟かの建物は瓦を換えたようだが、瓦の層が初めてはっきり見えた。家の門を入ると、庭の雑草が「私たちを見てください」とあいさつしているように感じた。自分の住処はきちんと整理されているものと思い込んでいたが、それは幻想に過ぎなかった。現在は、屋根の裂け目や水の痕、漆喰の剥がれ落ちた塀やペンキの色あせた床板もはっきり見える。そのうえ、あちこちの隅っこに、ほこりが積もっている。
 窓の外のライラックの枯れ枝に灰色の尾のカササギが一羽止まっていた。それが飛び立つと、今度は黒い尾のカササギが飛んできた。この二種のカササギは二つの家庭で、「文化大革命」の前からここに住んでいるのだが、「文革」のときに逃げていき、その後戻ってきたのだ。ここ数年、とても元気で、鳴き声だけは騒がしいほどに聞こえていたのだが、今回はっきり見ることができたので、旧友に再会したような気がした。まるで「おい、どうだい?」と問いかけられているような気分だ。
 本来薄暗い私たちの部屋は明るさを増した。私は鏡の中の自分を見たのだが、長い間自分を知らなかったことがよくわかった。自分はそんなに老けて見えないと思っていたのだが、額にはしわが刻まれ、目の下にはたるみができている。「美人は老いるまで生きられない」という言葉をふと思い出した。近視眼にも「老化したことがわからない」といういいところがあるようだ。
 病院に再検査に行くとき、沿道の様々な店舗の看板を大声で読んだ。車の運転手は不思議そうにしていた。見えることの楽しさなどわからないのだろう。
 (中略)
 医学は科学の一部分だ。科学は本当に素晴らしい!人類は本当に素晴らしい!科学があってこそ各種の治療があり、人の知恵があってこそ科学がある。人類の知恵の大きな特徴は想像力を有することで、それでこそ創造が可能となる。想像力を圧殺してはならない!人類のもう一つの特徴は経験を蓄積できることで、経験を蓄積してこそ進歩できる。どれほどの治療の経験の蓄積が、明るい目を与えてくれたのか。経験は最も貴重なものだ。忘れることはできない!
 最初の喜びは過ぎ去った。両目の視力のバランスが悪いので、私の見る世界は釣り合いが悪く、建物や車両はまるでアニメのようだ。考えてみればそれも面白い。近視眼の時は、よくミスをしていた。眼病患者としての日々は、いっそうあいまいだ。遠視眼となり、近くがはっきり見えなくなったが、少しずつ調整していきたい。できれば、もう少しすっきりした日々を送りたい。
 ニュートンは七十歳の時に、何を得たのかと問われ、「人生という海岸で貝殻を少し拾っただけだ」と答えた。この言葉は感動するくらい美しいと私は思う。
 私はもう七十を過ぎた。振り返ってみると、私が拾ったのはとても小さな石の粒だけだった。かなり正確で、そんなにあいまいではない目が得られたら、もう幾粒かを拾えるかもしれない。それはとても平凡なもので、結局は漏れ落ちていくのだろうが。

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