多田敏宏:中国の食と病と文学のブログ

中国の食と病について文学の点から見てみたいです。

宗璞と眼病(2),閲読との別れ

 旧暦二千年、まさに龍の年。春節前、街は色鮮やかな飾りがあふれ、美しく印刷した年賀状や花籠は、実に輝かしかった。

 私は龍の年生まれだが、まだ龍の年にならないうちに、赤いベルトを用意したらどうかと言われた。私は笑って、そういうものは信じないと言った。兎の年の大晦日、窓辺に立つと、突然目の前が暗くなった。左目に黒い紗のカーテンが下りたようだった。右目があまり良くないので、私は左目でものを見ている。今、全てが朦朧となった。どうなったのか?去年の夏白内障の手術をしてから、私は光のある生活を送っており、もう目がぼんやりすることはあるまいと思っていた。が、この状況は明らかに目の異常だ。祝日なので、春節が終わってから、すぐに病院に行った。

 龍の年の最初の大仕事は病院行きだ。診断は、驚いたことに、網膜剥離だった。気泡を眼球内に入れるという小さな手術をすれば視力は回復すると医者は言った。私は医者の言うことを聞き、入院して手術をしてもらった。手術後二週間で、眼前のカーテンはなくなり、以前と同じくらい見えるようになった。頭もはっきりしたような気がした。

 が、思わぬことに十数日後、気泡が消失し、その上私は喘息性気管支炎を患ってひどく咳き込んだ。二月二十七日、網膜が再び剥離した。

 やむなく病院に行ったが、医者は気泡を入れるというだけだった。今回は剥離の範囲が広く、気泡では不足だと私は思ったが、結局、気泡を入れてもらった。

 当時咳が大敵だと思ったので、病院に処置をしてもらった。咳は治ったが、網膜剥離は避けられなかった。

 三月二十日、気泡が消えると、三度目の網膜剥離だ。気泡は果たして任務を果たせなかった。はっきり見えたのだが、網膜は黒い紗ではなく、布切れのようだった。その夜はなかなか寝付けなかった。窓から見える月光はとても淡く、撫でてみたいと思った。もうこの光を感じることができないのではないかと考えた。夜の当番の看護師に「なぜ眠らないのですか?どこか具合が悪いのですか?」と問われ、「とても不幸です」とだけ答えた。

 三度目の手術は、シリコンオイルを眼球に入れるもので、眼科の大手術だ。手術は確定したが、ベッドがなかった。一日ごとに剥離の範囲が広がっていくのがはっきり感じられ、どんなに目を大きく見開いても暗黒だけになってしまった。ふと、今は亡き父の姿が見えた気がした。父はほとんど見えない目を大きく見開き、手で髭をいじり、微笑みながら、静かに著書の内容を口述していた。晩年の父は準盲人だったが、仕事を停止することはなかった。以後父は何度も暗黒の中に出てきたが、どうやって禍に対応するか教えてくれているようだった。

 とうとう入院し、手術の日になったが、手術前の診断は網膜の全剥離だった。

 手術前に麻酔の担当者と議論があった。彼女は若く、責任感のある人だった。私がふらついてなんとか手術台に上がるのを見て、本来の麻酔の計画に反対して、「目と命とどちらが大切ですか?麻酔をしろというなら、もう一度サインをしてもらいます」と言った。執刀の医師が色々な科の医師の診察を経ていることを説明し、麻酔担当者はやっと局所麻酔に同意した。が、問題発生を心配し、麻酔薬を少なめにした。私は関羽が骨の毒を削ってもらった時のようだった。麻酔担当者の言うのももっともだ。痛みは小さなことで、命は大きなことだ。手術の案配がうまくいかなかったことも、時間が遅れたことも、私は恨まない。私が恨んでいるのは神様だ。人の造り方が不完全だ。しかるべき器官が職責を放棄し、元に戻ろうとしない。頭はちゃんと首についているし、手は腕についている。どうして網膜だけが違うのか。

 これがただの文句であることは私もわかっている。網膜剥離は病気の一種で、高度な近視が原因だ。私は再度病魔に捕らえられたのだ。

 手術は順調だったが、病気の治癒には程遠かった。長い期間うつ伏せになっていた。人は直立歩行の動物だ。うつ伏せは苦しい。が、手術の成否に関係するので、だんだん慣れていった。シリコンオイルの作用は網膜の再形成を促すことで、三ヶ月か六ヶ月経ったら再手術でオイルを抜き取る。抜き取った後剥離した症例もある。科学の発達がこんなに速いのに、なぜ網膜剥離の完璧な治療法がないのか、不思議だ。オイルや気泡を入れても、抜き取ったら再剥落する可能性が高い。その時はならないとわからないという。杞憂であることを祈った。

 手術後、光を再度感じた。視力は哀れなほどだったが、光を感じることはできた。光と暗黒は全く異なる世界だ。暗黒から抜け出して光の世界に帰ってきた。私は満足している。家に帰ると部屋の中を歩き、カーテンを替えて欲しいとか、猫を洗ったほうがいいとか言った。ライラックはすでに咲き終わり、ハクモクレンはいくつかしか残っていない。他人の家のバラが塀を登り、数百の花が同時に咲いていた。花そのものははっきり見えなかったが、鮮やかな色は感じることができた。

 が、もう本を読めなくなった。 

 子供の頃から布団の中で小説を読んできた私にとっては、本を読めないというのは残酷なことだ。文字は私に豊かで美しい世界を与えてくれた。

 中略

 私は再び窓の前に立ち、父が文字が読めなくなっても大著を物したことを思い出した。車椅子の父が、庭のバラの花を指さしている姿がぼんやり浮かんできた。ピンクの花びらは透き通って見えた。突然、「桃色の雲」がフラワースタンドのあたりに出現した。盲目の詩人エロシェンコの書いた「春の侍者」だ。私が目をこすると、「春の雲」という軽やかな美少年が、薔薇の花を持ち、微笑んで立っていた。

 私は本は読めないが、書くことはできる。他人の本が読めなくなったので、かえってより良く自分のものが書けるかもしれない。

 私はこうして自らを慰め、静かに「閲読」に別れを告げた。

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