多田敏宏:中国の食と病と文学のブログ

中国の食と病について文学の点から見てみたいです。

孔子の養生法、guolujin2020-3-15 21:44:17

中国のネットに出ていました。

 論語の中で、孔子は病気を重大なことと捉え、三つのことを心がけていた。一、飲食を慎むこと。二、徳行を修めること。三、天命を知ること。この三つが揃ってこそ、健康長寿が可能となる。

一、飲食を慎むこと

 病は口から入る。飲食の不調は病の一大ファクターだ。孔子は「食は精なるを厭わず、膾は細きを厭わず」、「疏食をくらい水を飲み、肱を曲げてこれを枕とす、楽しみまたその中にあり」と言っている。粗末な米や雑穀を主食とすれば、かえって栄養が行き渡り、おかずは凝っていないものの方が消化吸収にいいのである。

 また「食の悪しきは食らわず、臭の悪しきは食らわず、飪を失えるは食らわず、時ならざるものは食らわず」とも言っている。腐ったものやうまく調理できていないものは食べなかった。大食はせず、定まった時間でないと食べなかった。

 「きりめ正しからざれば食べず」とも言っていて、正当でない方法で殺したものも食べなかった。

 「唯酒は量多し、乱に及ばず」で、酒は飲んだが節度は守り、乱れることはなかった。飲食にこれほど慎重であったので、病になるリスクは低かった。

 孔子にもし頑健な体がなかったら、晩年諸国を渡り歩き、十四年後に無事に魯の国に帰ることなど出来なかったろう。孔子が魯の国に帰った時は六十八歳の老人だったが、矍鑠としており、詩書や春秋の編纂、礼楽の制定などの煩瑣な作業を行なった。その旺盛なエネルギーは注目に値する。

二、徳行を修める

 慎重な飲食の他に、徳行の修養も健康に欠かせない。

 徳のある人なら、怒りや恐れ、憂いなどの情緒をコントロールし、喜怒哀楽の表出を礼節にかなったものにできる。孔子は弟子たちに「わかき時は血気まだ定まらず、これを戒むること色に在り。その壮んなるに及んで血気方に剛なり。これを戒むること闘にあり。老ゆるに及んでは血気すでに衰う。これを戒むること得るにあり」と教えている。色欲をなくし、闘争を戒め、貪りを抑える徳のある人なら、病で苦しむリスクも当然低くなるだろう。

 孔子の孫子思は「中和を致して天地を位し、万物育す」と言っている。個人の情緒や欲望を適度に整えておくことは、心身の健康ないい。

 ある日、孔子は病気になった。子路が心配して天地に祈祷を行い、「先生の徳は素晴らしいのに、なぜ病気になったのですか?」と尋ねた。孔子は子路に「丘のいのること久し」と言った。普段徳を修め、天にも地にも恥じることはしていないので、危を安に転ずることができるというのである。

三、天命を知る

 孔子は「仁者は寿ぐ」と言っている。礼と思いやりがあり、飲食に慎重で、徳行を重ねた人なら、当然健康で長生きするだろう。

 だが、病気の原因は、今の生にもあるが、過去の生にもある。普段健康に注意していれば病気になるリスクは減るが、過去の生から得た病気まで完全に避けるのは無理だ。

 孔子門下で徳行第一であった冉伯牛がその例だ。彼が不治の病に倒れたとき見舞った孔子は慰めて言った。「これ亡からん命なるかな!この人にしてこの疾あるや!」伯牛は一生徳行に励み、病気になる理由はなかった。そういう徳のある人が悪い病気になった。その道理は私には理解できない!天命だ!

 実際、生死には運命というものがある。飲食を慎重に行い、 徳行を修め、恥じるところがなかったら、病苦をなぜ恐れるのだ?

 徳があっても天寿を全うできないのは運命だ。天が不仁なのではない。孔子は「その道をもってせざればこれを得るとも去らざるなり」と言っている。自分が一生徳を積んでも貧乏であったなら、それは天命だ。貧乏な生活を排斥する必要などない、と言っている。

 穏やかな気持ちで病苦と向き合うのがいい。病気になるのは借金を返すのと同じで、肩の荷が下りて身軽になれるのだ。憂うことはない!

 孔子の人生は「朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり」だった。たとえ世を去らねばならないにしても、心の中に正しい道があるのから、憂いも恐れもない。一日の生を充実させよ。無駄に過ごしてはならない。よき苗を育て、きれいな花を咲かせ、豊かな果実をみのらせるべきだ。そうして一歩ずつ踏み出していけば、永遠の健康と安寧が得られる。

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