多田敏宏:中国の食と病と文学のブログ

中国の食と病について文学の点から見てみたいです。

粥と人生(一)、張抗抗

 粥は中国では、長江や黄河のように、源が遠く流れが長い。
 しかし私は浅学非才なので、粥の歴史を考証することなどできない。幼年時代から今まで粥を食べてきた経験から、その悠久の流れと尽きせぬ魅力を感じているだけだ。多くの中国人にとって、粥は生命の源であり、そこから気力と知恵を得て、様々な習慣を形成しているといっても決して過言ではない。
 少女時代は杭州にいた。浙江地方の人は汁かけご飯を好んで食べる。とても簡単なもので、余ったコメをかき混ぜて柔らかくし、湯で炊いただけのものだ。鍋の底にこびりついたご飯も含まれているので、とても香ばしく、朝食か夏の夕食に食べる。おかずは瓜のみそ漬けや腐乳(豆腐を発酵させてから塩につけたもの)、そら豆の揚げ物で、タチウオの塩漬けの炒め物が一番よく、安くておいしい庶民の食べ物だった。江南一帯の人にとっては、汁かけご飯は欠かせぬもので、北方の人が粥を好むのと同じようなことだ。
 母方の祖母は杭嘉湖平原の小さな町に住んでいた。江南の奥地で、干ばつや洪水の時でも収穫のある「魚と米の郷」だ。祖母の家では白米の粥を好み、必ずうるち米を用いた。うるち米で作る粥は粘っこく、鍋が煮えると、甘みのある粥の香りが厨房に霧のように漂い、ぐつぐつと白米が煮えている音は、まるで歌のようだ。火を止めたらすぐに食べるわけではない。蓋をしてしばらく置いておく。粥の表面に薄くて白い膜ができるのを待つ。粥の米は溶けんばかりに柔らかくなっていて、それこそが「粥」だ。そういう粥は当然爽やかで美味しく、白シャクヤクにユリとハスの実を加えて絞った汁のようだ。暖かいものをおなかに入れると、五臓六腑が潤う。
 私の母はそういう素晴らしい白米の粥を食べて育ったので、当然粥が好きで、命のごとく愛している。自ら「粥の缶」と称していて、ふだんは一碗だけだが、その気になったら一気に三碗食べられるそうだ。母方の祖母が杭州の私たちの家に来て滞在すると、杭州式の簡便な汁かけご飯は、祖母の命令でとても暖かな白米の粥に変更される。祖母は毎日早く起きて粥を炊き、炊き終わるとおかずを買いに行く。午後になるとまたすぐに粥を炊き始め、それが終わるとおかずを料理する。そのため私たちの家は朝も晩も粥だった。私には粥以外の選択がなかったので、粥を食べるのが習慣になったのだろう。当時の私にとっては粥は生活の必需品ではなかったので、粥を食べるとすぐにおなかがすくと不平をこぼしたこともある。それを聞くと祖母は眉間にしわを寄せ、箸で碗を軽くたたき、「子供は何もわかっていない。十数年前、一家が三年間粥を食べ続けて節約したから 、やっと田んぼが買えたんだ。おじいちゃんの家も、こうして節約して建てたんだよ……」と言った。
 おじも「粥を食べるのも簡単なことじゃないんだ」と言った。
 そこで私は顔を上げ、いぶかしげに祖母を見た。祖母は粥を食べるとき奇妙な習慣があった。食べ終わると箸を置き、碗の四辺にねばりついた粥を舌できれいに舐め取るのである。貧乏ではないのにこうやってかゆを食べるのはみっともないと私は思った。おじいちゃんの家の財産はこうやってできたのだろうか?一生粥を食べ続ければ、お金がいっぱい貯まるのだろうか?粥とは不思議なものだ。
 しかし、祖母の白米の粥は私の少女時代の夢と同様、江南にとどまっている。
 寒い北大荒の原野で凍ったトウモロコシまんじゅうをかじり、黒いマントウをちぎっていると、祖母の白米の粥が懐かしくなった。白米の粥は東北では大米の粥と言い、連隊の食堂ではたまにしか出ない。普通は病人用で、医師と隊長の許可が必要だった。あるいたずらな男性が、いろいろな策を講じて「発熱」したと見せかけ、許可を取って、大米の粥をだまし取ることもあったが、これは相互の公然の秘密だった。その後私は小さな家を持ったが、裏庭にエンドウマメを植えたことがある。成熟すると、翡翠のような新鮮な豆が取れたので、農場の人に米をもらって、粥を炊き、そこにエンドウマメを入れ、どうやって手に入れたのかわからない白砂糖も少し加え、江南では著名な砂糖入りのエンドウマメの粥を作った。連隊にいた杭州出身者たちがイナゴのように押し寄せ、あっという間になくなった。ただ、メンツを考えたのか、祖母のように碗を舐める人はいなかった。

×

非ログインユーザーとして返信する