多田敏宏:中国の食と病と文学のブログ

中国の食と病について文学の点から見てみたいです。

輝県で食べたナマコ、 趙珩

話しても信じてもらえないかもしれないが、今まで食べたナマコで一番おいしかったのは、河南省新郷地区輝県の県都で食べたもので、それも「文革」期間に食べたものだ。

 輝県に行ったのも、奇妙な事情による。1968年の春、北京の高校生は「上山下郷」という運命に直面し、農村で作業をしなければならなかった。学校側も行先の農村を手配したが、自分で連絡をしてもよかった。そこで私を含めた様々な高校の十人の学生は河南省輝県の農村と連絡を取り、そこの生産隊で作業をすることになった。その準備として私と友人の一人が輝県に赴いたのである。……
 輝県に行った二人は一日の用事を終えた。日は暮れ、疲れもたまっていたので、食事のできる場所を探した。当時の輝県の県都はみすぼらしく、電気が通じていないところもあった。いろいろ探して歩き、ついに電灯のついている小さな食堂を見つけた。当時の田舎の食堂は個人営業のものはなく、小さくても、すべて国営だった。その店には六つか七つのペンキを塗っていないテーブルに背もたれのない椅子が置いてあり、床は青レンガが敷いてあった。が、薄暗い明りで見ると、店はきれいだったので、中に入り椅子に座った。壁に貼ってあるボードに料理の名が書いてあったのだが、とても豊富だった。二つか三つ料理を頼むと、給仕が「ナマコの醤油煮込みをお食べになってください」と言った。値段を尋ねると、6.4元。1968年の6.4元は安い値ではない。確か、北京の豊沢園

のナマコのネギ焼き

が4.8元、同和居と萃華楼のナマコのネギ焼きが4元前後で、それらはみな上等のナマコを使っていた。輝県は辺鄙な田舎だし、仮にいいナマコがあったとしても、いい腕の料理人はいないと思った。が、結局給仕の押しに負けて一皿注文した。

先に注文した二、三の料理を持ってきたので食べてみたが、確かにいい味で、北京の食堂に劣るものではなかった。最後にナマコの醤油煮込みを持ってきた。

直径三十センチほどの大きな皿に載っていた。大きなナマコを使っていて、豊沢園の倍くらいはあった。上等のナマコで、油が透明に光り、丸々と肥え太っていて、色つやも魅力的だった。色と形も北京の大きな食堂より上だった。 

 ナマコは「海の珍味」と言われているが、それ自体には臭み以外の味はない。鶏と肉のスープでじっくり煮込み、氷砂糖と黄酒も使わねばならない。火加減をしっかり調整してこそ、柔らかくてしこしこしたものができ、スープも濃厚でで芳醇なものになる。それには高度な手腕が必要だ。ナマコの種類も選ばねばならない。1960年代に豊沢園と萃華楼、同和居で用いていたナマコは、今だったら高級な宴席でないと口に入らないものだ。また乾燥ナマコを水でもどすときにも高度な技術が必要だ。もどし方が下手だと、極端に軟らかくなるか、ゴムのように硬くなるかで、料理に使えなくなる。煮込んだり焼いたりも難しい。ナマコ自体には味がないので、鶏や肉の味を借りるわけだが、うまくやらないと味がしみこまない。そして少量の氷砂糖を使ってこそ、きらきらとした色つやが出る。
 輝県のこのナマコは見た目も素晴らしかったが、味もよく、なめらかで柔らかく、さくさくしていた。得難いことに、口に入れるとすべての味わいが一体となり、ばらけた感覚が全くない。まさに絶品だった。
 美味しく食べたわけだが、河南の田舎でこんなに素晴らしい美味と出会ったことに驚いた。ちょうどひまになったときに、こういう素晴らしい腕の料理人と会いたいと申し出た。給仕が料理人を呼ぶと、六十歳くらいの人が出てきた。輝県の人だという。料理の腕を称賛した後いろいろ尋ねると、彼は言った。「私はもう六十三歳ですが、輝県で生まれ、十四歳の時に親戚に連れられて山東の済南の料理店に入り、山東料理を学びました。その後開封と許昌の大きな料理店で料理を作り続け、去年退職して故郷の輝県に戻ってきたのです。この食堂で仕事をするようになってから、様々な食材を仕入れ、かなりの新しい料理を考案しました」しかし、当時は「文革」の最中だったので、店の商いはうまくいっていなかった。
 あれから三十年以上たった。何度もナマコを食べ、何度も宴会に出た。が、中国の東西南北であろうと台湾であろうと、あの時に食べたものと比肩できるナマコの醤油煮込みを食べたことはない。

×

非ログインユーザーとして返信する