多田敏宏:中国の食と病と文学のブログ

中国の食と病について文学の点から見てみたいです。

麦さんのちまき、趙珩

 麦というのがその人の姓だった。名前は誰も知らない。今生きていれば、百歳を超えているだろう。

 物心がついた頃から、麦さんを知っていた。広東の人だが背が高く、185センチくらいあり、当時小さな子供だった私から見ると山のようだった。少し猫背で、当時すでに六十歳を超えていたと思う。

 麦さんは自分の店を持たなかったが、北京に百軒以上の得意先があった。古いが丈夫そうな自転車の両側に洋式の鉄桶をぶら下げていたが、それが彼の「移動商店」だった。端午節前と春節前、一年に二回麦さんはやってきた。

 麦さんは楽観的な人で、自分で作った食品を自分で得意先に届けていた。自分の腕に自信を持っていて、天下一だと自負していた。

 麦さんの作ったものは確かによかった。春節前になると、餅米鶏(もち米に鶏肉やシイタケを入れ、ハスの葉で包んだ広東料理)

や八宝飯

を持ってきた。

 端午節前になると、ちまきだけを持ってきた。四種類か五種類あり、一番よかったのは小豆餡ちまき

と火腿(中華ハム)ちまき


だった。あと、蓮蓉(ハスの種を粉砕して油と糖で練ったもの)ちまき

や卵黄ちまき

もあった。

 麦さんのちまきは他のものとは大きく違っていた。まず、きちんとクマザサの葉で巻いていた。北京の他の店はアシの葉で巻くところが多かった。そして、サイズが大きく、形状も違っていた。麦さんの小豆餡ちまきは方形で、火腿ちまきは斧の先なような形、北京の他のものの三倍くらいのサイズで、値段も十倍だった。が、質も比較にならないくらいよかった。小豆餡は、豚の油で炒めたこしあんを使っていて、甘くて油分も多かった。もち米1、餡2の割合だった。火腿も本物の金華火腿を使い、他の七、八倍の量だった。値段が高くなるのももっともだった。誰も値切らなかった。質が良く値段も適正だったからだ。

 1959年から1961年までの「困難な三年間」も送り届けてくれたが、1963年の端午節の前は、来なかった。1964年の春節前、祖母は「麦さんは来るはずだ」と言っていたが、来なかった。それ以降麦さんの姿を見ることはなかった。

 三十年以上経つが、端午節のたびに麦さんを思い出す。

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