多田敏宏:中国の食と病と文学のブログ

中国の食と病について文学の点から見てみたいです。

北平の重陽花餻,唐魯孫


「続斉諧記」に「汝南で九月九日に大きな災があった。ある人が家人に腕にシュユを結ばせ、

高い台に登って菊花酒を飲んだところ、

災は収まった」と記載されている。また、「土風記」に「九月九日に菊花酒を飲むのは

不吉を払うためで、シュユを頭に挿すのは悪い気を避けるためだ」と書いてある。つまり、古人が重陽節(九月九日)に高い台に登って菊花酒を飲み、シュユを身につけるのは、穢れを防ぎ災を避けるためだった。

 シュユには普通の食用のものと薬用の「ゴシュユ」とも呼ばれるものがある。菊も草菊と薬菊の二種類ある。現在、菊花酒はあまり見ないが、菊花茶を飲む人は多い。

 北平の菓子屋では、重陽花餻は、大型、小型、「毛辺」の三種類だ。大型と小型は菊花の形の型に入れて焼いたものだが、「毛辺」は大きな方形に切って、売る。どの花餻であれ、以前はシュユの葉を貼りつけていた。抗日戦争勝利後に北平に帰ってみたら、花餻にシュユの葉を貼りつける習慣はなくなっていた。

 毓美斎の店主によれば、花餻の四辺に松の実を嵌め込み、表面にシュユの葉を貼りつけるように師匠に教わったという。


 北洋軍の曹錕は重陽花餻が大好きで、大統領になったあと、何人かの腹心に配るように部下の李彦青に命じた。が、李はそれを忘れてしまっていた。重陽節に曹錕が懐仁堂に政界の大物を京劇鑑賞に招いた時に王承斌に尋ねたところ、「もらっていない」と言う。まずい、と気がついた李は夜中に正明斎に

人を派遣し、二千人分の花餻を大急ぎで作らせた。その後正明斎の店主に聞いたが、重陽節がすんでから花餻を作ったのはその時だけだったそうだ。だが、それが先例となり、北平の菓子屋では一年中重陽花餻を置くようになった。

×

非ログインユーザーとして返信する