多田敏宏:中国の食と病と文学のブログ

中国の食と病について文学の点から見てみたいです。

ピーナッツ、老舎

 私は謙虚な人間だ。だが、ポケットにコイン四枚分のピーナッツを入れ、歩きながら食べていると、秦の始皇帝より誇らしい気分になる。誰かに「もし皇帝になったらどんなことをしたい?」と問われたら、何の躊躇もなく「大臣にピーナッツを買いに行かせ、食べたい放題食べる」と答えるだろう。
 どんなものにも幸と不幸がある。なぜスイカの種がピーナッツより人気があるのかわからない。

良心に照らして言ってほしい。スイカの種にどういう長所があるのか。舌を挟んだり、歯の間に挟まったり、噛んだとたんに砕けてしまって腹が立ったり、そういうことばかりではないか。幸い砕けなくても、とても小さいので飢えを癒せず、味もない。手間のかかる無駄使いであり、ブルジョアだ。ピーナッツを見てほしい。ゆったりとして、浅くて白いあばたがあるが、腰が細くて曲線がきれいだ。

これは外見に過ぎない。殻を割ってみると、二つか三つのピンク色の丸々とした果実がある。ピンク色のシャツを脱がせると、象牙色の豆が抱き合っており、上の方では口づけをしている。つやつやと光ってみずみずしく、香りが豊かで、歯に当たるとさっくり割れる。ピーナッツだけでもいいし、酒のつまみにしてもいいし、檳榔のように舌に置いて噛んでもいい。文章を書くときは、ピーナッツが三つか四つあれば紙巻き煙草一本の代わりになる。しかも有益無害だ。

 種類も多い。大きなものや小さなものもあれば、剥いたものもあり、砂糖漬けや炒めたり煮たりしたものもある。それぞれ独自の風味があって、みなおいしい。雨の降る日、煮たピーナッツに塩を振りかけ、それをさかなに玫瑰露を飲む。


いい詩がいくつかできるだろう。
 スイカの種で詩のインスピレーションが湧くだろうか?冬の夜、早めに布団に入り、「水滸」を読む。枕元にはピーナッツだ。ピーナッツの香りと味、布団の暖かみ、武松が虎を倒した……


まさに天国だ!冬に道を歩く。冷たい風が吹くか、雪が降っている。でも、ポケットにピーナッツがあれば大丈夫だ。一個取り出して皮を剥き、急いで口に入れ、噛む。もう風も雪も怖くない。そして二十歳以上の人なら、まるで神仙になったように心配事がなくなり、街を歩きながらピーナッツを食べ続けるだろう。こういう人が将来宰相か大臣になれば、威張ったり汚職をしたりすることもない。
 こういう人が皇帝になったら、質素で温和なよき君主になるのは間違いない。スイカの種は、普通は街を歩きながら食べることはない。
 家に子供がいれば、ピーナッツは何よりも重要になる。食べられるだけではなく、子供たちの玩具にもなるからだ。女の子だったらイヤリングの代わりに耳につけて喜ぶ。男の子だったらビー玉の代わりにはじく。遊び方はいろいろだ。遊んだあとは皮を剥いて食べるが、決して汚くない。ピーナッツが二つあれば子供たちは半日遊んでいる。スイカの種だったらどうだろうか?
 見た目と味だったら、栗もすばらしい。

が、ピーナッツと比べると栗はなじみにくい。栗は人と気持ちを交わさないかのごとくだ。クルミもだめだし、ハシバミはもっと疎遠だ。ピーナッツはどこでも、誰とでもつきあえる。皇帝から庶民まで、どんな人とも友達になれるのである。

 イギリスでは、ピーナッツは「サルの豆」と呼ばれている。動物園に行くとき一袋持っていき、サルにやるのである。しかしサルにやっている人(子供は言うまでもない)がこっそり自分の口に入れているのを見たことがある。ピーナッツにはリンゴのような魔力があるのだろうか。
 アメリカではサルでなくてもピーナッツを食べる。確かアメリカのある若い女性が中国に来るとき、トランクの空いたところにピーナッツを詰めていた。全部で五キロくらいだっただろうか。中国では食べられないと思ったのだろう。アメリカの若い女性がこれほどピーナッツを大切にしているのだ。その価値がわかるだろう。
 ピーナッツは婚礼とも関係があるようだ。花嫁を乗せる輿の中にピーナッツを一包み置いておくのだが、涙を流しながら噛むのかも知れない。

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