多田敏宏:中国の食と病と文学のブログ

中国の食と病について文学の点から見てみたいです。

竹葉茶、李漢栄

 夏になると、母は青々とした柔らかい竹の葉をとってきて湯に入れて煎じ、清らかな香りで碧緑の竹葉茶を作った。
 この竹葉茶を飲めば病気が治るし、少しでも衛生に注意すれば病気にもならないと母は言った。  
 「竹は正直な植物だ。深く根を下ろし、天に向かって垂直に幹を伸ばす。大地にも天空にも引力がある。大地の引力に服従するだけでは苔や雑草と同じだ。大地の引力に服従しながらも天空の引力に呼応しているので、竹は堂々と育つ」と母は言った。
 「竹は我慢強い植物だ。傾斜が急な道を歩くので疲れ、数歩ごとに休む。その印が竹の節だ。竹の節は遠路を歩いてきたことの証明だ」と母は言った。いや、実際は母はそんなに多くの話はしなかった。竹葉茶を煎じて「みんな、竹葉茶を飲みなさい。おいしいよ」と言っただけだ。
 淡々とした竹葉茶のように、母の話は淡々としていた。
 が、母には話したいことが多くあり、それを竹葉茶に溶かし込んでいたのではないだろうか。
 あるいは話したいことはなかったかもしれない。生活も竹葉茶も淡々としている。人生そのものも淡々としたものだと思っていたのかもしれない。
 あるいは話したいこともあったが、適切な言葉が見つからなかったのかもしれない。淡々たる竹葉茶のほかに、淡々たる生活の中に濃厚な思いを持っていたのかもしれない。
 上述のいくつかの話は、私自身が母になったつもりで書いた。私はああいう話を聞きたかったのかもしれない。子供というのは、暖かで面白く、ためになる話を聞きたがるものだ。賢い子だったら、詩意と哲理を含んだ話を聞きたがる。潜在意識の中で、母が詩や文学に詳しい「貴婦人」だったらいいなと私は思っていたのだろうか?
、が、母には大した教養はなく、何の哲理も語らなかった。
 夏が来ると、黙々と安らかに竹葉茶を煎じ、「みんな、竹葉茶を飲みなさい。おいしいよ」と言っていただけだ。
 上述のいくつかの話は母が語るようなことではなかったし、実際に語らなかった。文字の読める人ならだれでも本から持ってこれる話だ。
 また、暑い夏がやってきた。
 故郷の母のもとに帰り、清らかな風の吹き渡る竹林の中で、かぐわしい竹葉茶を飲みたい。「みんな、竹葉茶を飲みなさい。おいしいよ」という母の淡々とした言葉が聞きたい。

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