多田敏宏:中国の食と病と文学のブログ

中国の食と病について文学の点から見てみたいです。

炒り米と焦げくず、汪曾祺(1920-1997)

 子供の頃「板橋家書」を読んだら、「ものすごく寒い日の夕暮れ、貧乏な親戚と友人が家に来て、先に碗一杯の炒り米を渡し、次にショウガのみそ漬を一皿添えてくれた。貧しさを温める最上のものだ」と書いてあり、非常に親しみを感じた。鄭板橋は興化の人で、私の故郷は高郵だ。風習も似ている。こういう気持ちは他地方の人には理解しがたい。炒り米は各地にあるが、多くの地方では炒り米糖にしている。とても安い食べ物で、子供たちが買って、カリカリ噛んでいる。

四川では炒り米糖と湯をセットで駅や埠頭で売っていて、炒り米糖を湯に浸して食べる。が、四川の炒り米糖は専門の工場で作っているようで、私たちの故郷とは異なる。私たちの故郷にも炒り米糖はある。他地方と同じく長方形だ。球状のものもあり、「歓喜団」と呼ばれている。それは工場で作ったものだ。しかし、普通に言う炒り米は、砂糖を加えて形を作ることはせず、ばらばらのままだ。それに工場で作るものではなく、自分の家で炒っていた。

 自分の家で炒るといっても、実際は専門の人を呼んで炒ってもらっていた。炒り米を炒るのはかなりの技術が必要で、誰にでもできることではなかった。冬が来ると、だいたい冬至を過ぎた頃だったが、大きなふるいを背負い、長い柄の鉄シャベルを持った人が、町のあちこちをうろつき始める。炒り米を炒る人だ。十歳くらいの手伝いの子供を連れていることもあった。家に来てもらって、食事をおごり、いくらか金を渡して、一日炒ってもらう。二十リットルとか五十リットル。私の家のように家族が多ければ、一度に100リットルのもち米を炒っていた。

一年に必要な分を一度に炒り、細かく分けることはなかった。この季節を過ぎると、炒り米を炒る人は見当たらなくなる。炒り米を炒ってもらうと、もうすぐ新年だという気分になった。

 炒り米を入れておく壷は決まっていて、「炒り米壷」と呼び、別の用途には使わなかった。炒り米を掬うものも決まっていて、普通煙草の空き缶を使っていた。私の祖母はザボンのからを使っていた。私たちの故郷ではあまり見かけないザボンのてっぺんに穴を開けて中のワタを取り出し、そこを米糠で塞いで、干しておくと、硬い鉢なようなものができる。祖母は一生それを使っていた。
 私の父に、張仲陶という変わった友人がいた。学識の深い人で、私に「項羽本紀」を教えてくれたこともある。田畑をわずかに所有しており、仕事をせずに、一日中家で易経を研究し、占いをしていた。ノコギリソウを使って占いをしていたが、ノコギリソウを使っていたのは町でその人だけだった。聞くところによると、よく当たったそうだ。ある家で金の指輪を紛失し、女中が盗みの疑いをかけられた。その女中は疑いを晴らすため、張さんに占いを頼んだ。張さんは占ってから、「指輪は紛失していない。あなたたちの家の炒り米壷の蓋の上にある」と言った。探してみると、その通りだった。子供の頃私はそれをあまり信じなかった。炒り米壷の蓋の上にあるなどときっちりわかるはずがないと思っていた。しかし、この件で私たちの故郷ではたいていの家に炒り米壷があることがわかった。
 炒り米自体はそんなに美味しいものではない。便宜的にそれぞれの家で蓄えていただけだ。

湯に浸せば、すぐに食べられる。おいしいものが何もないときに、一碗の湯に浸せば、朝や夕方の茶の代わりになる。ふだんの客に一碗出せば、軽食にもなった。鄭板橋は「貧乏な親戚と友人が家に来て、先に碗一杯の炒り米を渡し」と書いているが、これは乾燥麺よりも簡単で、手間を省いていることにもなる。炒り米だけでは満腹にならない。普通は白砂糖をひとつかみかける。鄭板橋の言うように「ショウガのみそ漬けを一皿添える」こともあるが、多くはない。私は今は年を取ったので、誰かが炒り米をご馳走してくれるなら、ショウガのみそ漬一皿にごま油を数滴かけて、食べたい。そういうのもかえって面白いのではないか。別の食べ方として、豚の油で目玉焼きを二つ煎って、ひとつかみの炒り米と一緒に食べることもある。これは「子供を甘やかす」ときの食べ方だ。どこかの家でいつも子供にこういうものを食べさせていると、町内で議論を引き起こした。
 私たちの故郷では急ぎのときの食品として、「焦げくず」というものもあった。。焦げ飯をうすでひいて粉にしたものだ。

私たちの故郷では、米の飯を食べていたので、焦げ飯も食事のたびにできた。焦げ飯を削り取って、弱火で焼き焦がし、巻いて保存した。質が悪くなることはなく、すえることもなく、カビも生えなかった。一定の量がたまると、小さな石臼でひいて砕き、置いておいた。焦げくずは炒り米と同様、湯に浸せば、食べられた。焦げくずを均等にのり状にしたものは、北方の炒め麺に少し似ていたが、炒め麺よりさっぱりしていた。
 私たちの故郷の人が炒り米と焦げくずを蓄えておいたのは、便利さと、緊急事態に備えるためだった。正常にご飯を炊くことができないときに、飢えをしのぐのである。古代の軍が用いていた「乾燥飯」と少し似ている。正確には覚えていないが、ある年、とにかく私がまだ子供で小学校に通っていた頃、党軍(国民革命軍)と聯軍(孫伝芳の軍隊)が私たちの県内で戦闘し、多くの人が赤十字会に逃れた。どういう信念に基づくものかはわからなかったが、みんなどの軍隊も赤十字会には入ってこない、赤十字会に入れば安全だと思っていた。赤十字会は煉陽観という道観に設置されていた。私たち一家は荷物を少しばかり持って煉陽観に入った。祖母の特別の言いつけで、炒り米一壺と焦げくず一壺も持って入った。普段とは異なる生活に私は大いに興味を持った。夜になると、呂祖楼の屋根に上り、双方の軍隊が銃や大砲を打ち合って東北の方が明るくなったり暗くなったりするのが見え、かなり緊張したが、面白いとも思った。多くの人が一緒にいたので、ご飯を炊くことができなかった。そこで私たちは炒り米と焦げくずを湯に浸してしのいだ。ベッドがなかったので、道士が読経のときに使う座布団を数枚並べ、その上で一晩眠った。これは私が子供のころに過ごしたロマンチックな夜だ。
 次の日、何ともなかったので、みんな家に帰った。
 炒り米と焦げくずは、私の故郷の貧困、そして長期にわたる動乱と関係がある。

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