多田敏宏:中国の食と病と文学のブログ

中国の食と病について文学の点から見てみたいです。

茶水、周作人

 故郷の田舎の冠婚葬祭などの風俗について詳しく述べる意思もないし、その能力もない。多くのことを忘れてしまっているし、記憶もあやふやだからだ。一族の中では私が一番年長なので、教えを乞える人もいない。詳述しようとしても、その力がない。私にできることは、いくつかの細かな点を思い出し、記録しておくことだけだ。まず、飲食のことだ。

 同じ町にいても、飲食の方式は家によって違う。県境を跨がずともだ。私の家では、朝起きるとご飯を炊きつつ、湯を沸かして茶を淹れていた。それゆえ朝食前に茶や湯を飲むことができた。が、安橋の魯家に行くと、実に不便だった。その家では朝に茶を飲まなかったからだ。ご飯を炊いた後に湯を沸かしていた。そして大きなテーブルの上に綿や草で包んで保温できるようにした錫のやかんに湯を注ぎ、一日三回湯を足していた。非常に濃い茶の汁にそこから湯を継ぎ足して、自由に飲んでいた。夏になると大きな鉢にカワラニンジンの汁

かスイカズラの汁

をいっぱいに入れ、冷えたらしゃもじですくって好きなだけ飲んでいた。

 ふだん料理を作るときは井戸水を使い、飲むのは雨水だった。大きな甕に雨水を貯めていた。ミョウバンで消毒したので、多少の汚れは気にしなかった。が、二枚の半円の木の板で蓋をしていたのに、ボウフラが頻繁に湧いた。が、茶水の中に煮えたボウフラはいなかった。理由は簡単で、木の蓋を開けて水を掬うとき、柄杓を入れた途端にボウフラが激しく逃げ回ったからだ。緑茶を飲むのが習慣だったが客が来た時は龍井

の類を当然使用し、ふだんは本山茶の一種

を飲んでいた。平水一帯で産するもので、山の人が自分で作って直接売っていた。茶の店で買ったものではなかった。紹興の茶の店はすべて徽州の人が経営し、大半は安徽や杭州の茶を売っていた。店員は客には紹興の方言で話していたが、店員同士では田舎の言葉を使っていたので、他人は全くわからなかった。

  (1951.9)

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