多田敏宏:中国の食と病と文学のブログ

中国の食と病について文学の点から見てみたいです。

紹興の餻干、周作人

 今年は兄魯迅の逝去二十周年記念の年だ。北京のある新聞社で編集をやっている友人が紹興に行って魯迅の旧居を見学し、紹興特産の「香餻」

 

を土産に持ってきてくれた。友人の好意にはもとより感じ入った。離れて久しい故郷の特産品は、旧きを思う気持ちを引き起こし、忘れかけていた故郷のことも思い出した。
 正直に言えば、故郷のことをそんなに良く思っているわけではない。第一に、紹興は気候が良くない。夏はとても暑く、冬はとても寒い。紹興では建物の中に防寒設備がないので、防寒設備のある北京に長期間住んでいた人間にとっては、過ごしにくい。春夏秋の三季に蚊がいるのもたまらない。紹興の山水はいいが、浙江の他地区に比べて特に素晴らしいわけではない。やはり話をするなら、物産、ことに食べ物に関することが多くなる。
 兄魯迅は「朝花夕拾」の前書きの中で「子供の頃故郷で食べたヒシの実やソラマメ、マコモやマクワウリなどの野菜や果物を何度も思い出したことがある。これらのものはみな極めておいしく、私の故郷を思う気持ちは惑うほどにまで強くなった」と書いている。これらの野菜や果物は元来素晴らしいものだが、私の記憶に残っているのは餻団だ。

十年前に私が作った「児童雑事詩」のなかの一首に「嘉湖の菓子は昔から有名だが、餻団には及ばない。様々な菓子が棚に並んでいるが、一番忘れがたいのはあぶった麻糍だ」という一節がある。
 ここでいう餻団は水分を多く含んだもので、「嘉湖の菓子」のような乾燥菓子とは異なる。あの友人が私にくれた「香餻」は乾燥菓子に属するが、餻団と一脈通じるところがある。両方とも米の粉を使用し、麦の粉を使っていないのだ。紹興で「餻干」と呼ばれているものは、明らかに乾燥した餻類だ。范寅の「越諺」巻二「飲食門」に、「米の粉を直方体に固めてじっくり炙ると、サクサクしてとても美味しく、紹興地方の名物だ。紹興酒と共に京にも進出しており、『京に入った香餻』の名で知られている。以前は黄色のものが多かったが、今は白いものが多く、より細かで質のいい粉を使っている」という記載がある。

 紹興に香餻を売る店は多いが、「孟大茂」が一番有名だ。

清の嘉慶十二年(西暦1807年)の創業だから、百五十年を超える歴史がある。その店が発行している説明書の記載は、「越諺」と少し異なるが、信憑性は高いかもしれない。すなわち「紹興の田舎の農家では、毎年旧暦の年末に臼で年餻

をつき、農繁期のおやつとして食用にする。が、砂糖を加えて蒸すのは面倒なので、粉に砂糖を加えて炙るようになった。砂糖を炙ると粘り気が出るのを利用して、香餻の雛形を作ったのだ。簡単に作れるので広まった。香餻の俗称は餻干だが、そういう経過から名付けられた。その後、色、香り、味を改良していった。清の時代の浙江東部の科挙受験者は香餻を道中の食としたので、香餻は当時のインテリ階級の間に広まり、北京の方でも有名になった。それゆえ『京に入った香餻』という言葉ができた」

 「京に入った香餻」という名称の文字を見ると、確かに「孟大茂」の説明の方が筋が通っている。…年餻から改良されたというのもあり得ることだ。純粋に農民のものとは言えなくても、最も大衆化した菓子の一つだからだ。かつて民衆は親戚の家を訪問するとき、「餻干の包み」をよく持っていった。

 紹興の餻干と言うと、楊村餻干を思い出す。

以前北京の小さな店で専門に売っていた。製法は紹興のものとだいたい同じだったが、味は大して良くなかったので、あまり買わなかった。が、大衆化されたという点では紹興の香餻と一致する。また、楊村餻干の店では乳餻をよく売っていた。楊村餻干は子供を育てる際にも使えるのだろうか。紹興の香餻、特に黄色の香餻は、大人が噛んでから子供に与え、乳の代わりとすることもあった。かつて田舎で大量に売れたのも、それが主な原因の一つだろう。(1956.12)

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