ガチョウを飼う、周作人
兄魯迅の「長明灯」という小説の中に、子供のなぞなぞについて書いた部分がある。そのなぞなぞは「白い舟に赤いオール、ゆらゆら揺れて対岸で休み、菓子を食べて歌を歌う、これは何だ?」というものだ。
その答えは、子供でも知っているが、「ガチョウ」だ。ガチョウの動きや姿をはっきりと描写している。ガチョウが水面に浮かび、ガアガア鳴きながら何かを食べている、という印象は田舎の子供たちの心に強く残っている。ニワトリ、アヒル、ガチョウなどの家禽類の中で、ガチョウは最も愛すべき存在だ。それゆえニワトリやアヒルを飼っていてもただの家畜だが、ガチョウは犬や馬のように人に愛される。
ガチョウを飼うといえば、「王羲之(有名な書道家)がガチョウを好んだ」という故事は、ほとんどの人が知っている。山陰の道士が飼っているガチョウを欲しいと思った王羲之が、自分が書いた「黄庭経」と交換して手に入れたという話だが、
美談として伝えられている。ガチョウのどこがいいのか説明しているわけではないが、だいたい推測できる。だいたい同じ時代の話だが、ある高僧が隠遁生活を送っていたが、馬を飼っていた。ある人がその理由を尋ねると、その高僧は「馬を使うことはないが、その表情を愛でている」と答えた。ガチョウも態度が高慢で、眼中に人なきがごとくに、周囲を見下して歩いている。こういう動物は少ないので、「牛と目玉を取り替えた」という話まで伝わっている。ガチョウは牛の目を持っているので、人が小さく見える。牛は体は馬鹿でかいのになんでも人の言うことを聞くのは、ガチョウの目を持っているからだという。
ガチョウは古人には重く見られてきたが、食品としては大したものではない。北方の人はあまり食べず、背中を赤く塗ったものが、市場で生きて売っているだけだ。
喜びごとがあったときに、「大雁」、「奠雁」
として使用し、それが済んだら売りに出すのだ。
が、私たちの故郷の田舎では、ガチョウを食べる。そんなに上等なものではなく、ニワトリやアヒルより落ちる。「三牲」を論じれば、ニワトリより上ではあるが。墓参りの時は、燻しガチョウ
が欠かせない。焼きアヒルでは代用できない特殊な食品だ。ガチョウにはアヒルほど脂肪がないので、皮と一緒に肉を切り、醤油につけて食べる。実に甘美だ。「蒸しニワトリ」と似た「蒸しガチョウ」も食べるが、新年を祝うときだけで、
それ以外の時に軽易に食べるわけではない。ガチョウは丁重に扱われている。(1957.11)